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危険なプロット:文学という血縁が、孤独な他人を父子にする

Dans la maison(原題), In the House(英語題名)(2012).

フランスのフローベール高校(リセ)に赴任してきた、国語(フランス語)教師のジャーマン(ファブリス・ルッキーニ)は、生徒が書いた週末に何をしたかという作文を採点しながら、その内容のなさに辟易していた。ピザとスマホのことばかりなのだ。

かれらが少しでも本を読むように仕向け、かれらの文学的教養を向上させ、それが文章に反映されることができるようにすること。それが自分のミッションであると、かれは考えた。

その中にユニークな、小説じみた作文が、ひとつあった。クロード(エルンスト・ウンハウアー)が書いたものだった。興味を惹かれたジャーマンは、かれに作文の個人指導をはじめる。自分には息子がいないこと、そして数年前にまずい恋愛小説を出版して、才能のなさを自覚したことが、ジャーマンをこの教育にかりたてた。

ジャーマンを演じたファブリス・ルッキーニは、エリック・ロメールの映画の常連である。ロメールに文学の教養を、鍛えられた。そのためフランスでは、文学の先生のようなイメージがある。そのルッキーニに、新人のエルンスト・ウンハウアーを、実際に教えてくれ、とフランソワ・オゾン監督は頼んだ。

そういう意味でこのふたりの師弟関係は、現実のものでもあり、そのドキュメンタリーを撮っているようであった、ともいう。

クロードの父親は失業者で、父親に見切りをつけた母親は家を出た。だからクロードは、中産階級的な普通の家庭に、憧れがあった。それがどういうものなのか知りたくて、数学ができない友人のラファの勉強をみてやることにした。

ラファの家のなかで、中産階級家庭の擬似経験をするクロードは、そこで見たり感じたり想像したりしたことを、次々と作文に書いていく。最後はいつも、「つづく(à suivre)」。ジャルマンは物語の展開に、釘付けになってゆく。

個人指導でジャルマンは、クロードに次々と小説を貸す。ドストエフスキーは、凡庸な人々を、忘れがたい人々に変えるんだ。ほかにもチェホフやディケンズなどを読ませる。

高校がリセ・フローベールであるように、おそらくこの映画でもっとも重要な作家は、フローベールだ。この映画はイタリアの芝居を原作としているが、それを映画に脚色したフランソワ・オゾン監督(脚本も)は、かなり自分のアイディアで原作を改変しているようである。フローベールは、自分が好きだからえらんだ、という。

フローベールはジャッジしない、とジャーマンはクロードに教える。かれはただ見たものを書くだけだ。対象を視覚的に描写するフローベールの文体は、もともと映画的である。

きみの物語には衝突がない、衝突によるサスペンスが必要だ、とクロードに吹き込むジャーマン。最初は普通の家庭の中に入れて、それを観察することで満足していたクロードは、そそのかされて、自分からちょっとした出来事を仕掛けるようになる。母親に誘惑的な詩を渡してみたり。

ここから先は、リアリティとファンタジーが錯綜した展開になる。いくつかの官能的な場面が、クロードの想像なのか、本当にクロードがしたことなのか、それは観客の判断にゆだねられる。

(Photo by IMDb)

フランス映画のアンファン・テリブル(enfant terrible 恐るべき子供)といわれてきた、フランソワ・オゾン。初期の映画では中流階級家庭に対する破壊欲望があったかれは、この映画にきてその姿勢を修正したようだ。凡庸でも安定した両親がいる中産階級家庭にあこがれるクロードは、オゾンの分身のようである。

そこにフローベールの客観が生きてくる。つまり、クロードはラファの家庭を、斜交いに観察している。そのクールな眼差しは、むしろかれらにあこがれながら、そこに本当には入ることができない、観察者のものである。

クロードが侵入して、小説のサスペンスをつくるような粉を現実にまいたからといって、ラファの家庭は崩れない。中流階級家庭は、いたずらな少年がもたらした小説的サスペンスをものともせずに、その絆を強めるのである。

小説の展開をおもしろくしようとするあまり、クロードをそそのかして現実の領域を侵食し、ドロップアウトしてしまったジャーマン。でもその傍らには、クロードがいた。凡庸だがしあわせな中流階級家庭の世界に入ることができないこの「父子」はしかし、その孤独を共有していた。

ふたりを結んでいたのは、文学という血縁だった。

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