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『砂丘律』批評会記録

 2016年2月14日(日)9:50-12:45に名古屋の長円寺会館2階において、加藤治郎さん、荻原裕幸さん、田口綾子さんをパネリスト、廣野翔一さんを司会として『砂丘律』批評会が開催され、約100人が出席しました。
 批評会に出席できなかった人にも議論を共有し、またそこから新たな議論が生まれればとの思いから、パネリスト及び壇上発言の要点を以下のとおり公開します。(敬称略)

1 田口綾子

(1)口語短歌であることへの意識

 いくつかの歌を初出と比較すると例えば「ごとし」が「ような」へ改作されていたり、より口語に近づけられている。このことから、砂丘律が「口語短歌」を強く意識して編まれたことがわかる。

(2)「口語的」な文語の利用

  銅と同じ冷たさ帯びてラムうまし。どの本能とも遊んでやるよ (p82)
  御屋敷の壁を曲がればその先はうつくしき行き止まりであろう (p173)
 これらの歌における文語の利用は、友人などとの会話の中で「このラムうまし~!」とふざけて言うような、つまり「口語的」「会話体的」な文語の利用であることが指摘できる。

(3)破調の多さ

 初読時、字足らずが多いことが気になった。字余りの多い歌集はよくあるが、字足らずが多いのは珍しい。しかし、よくよく数えてみると、合計では31文字近くになっているものが多い。字足らずなのではなく、字足らずに見えるのである。
  砂の柱にいつかなりたい 心臓でわかる、やや加速したのが (p24)
すなのはし⑤/らにいつかなり⑦/たい しんぞ⑤(+①)/うでわかる、やや⑦(+①)/かそくしたのが⑦
  煙草いりますか、先輩、まだカロリーメイト食って生きてるんすか(p35)
たばこいり⑤/ますか(、)せんぱい(、)⑦+②/まだかろり⑤/ーめいとくって⑦/いきてるんすか⑦
 これらの歌を見ると第二句が8音になっている、第三句が6音になっているという風に一部分が膨らんでいるのではなく、歌の全体を少しずつ定型からずらしていることがわかる。これにより、短歌の定型に慣れている読者は、いつもの定型とおりの拍を待つ、音が足りるまで待つことになり、その間に一首の感情が増幅される効果があるのかもしれない。
 印象ではあるが、こうした破調は口語短歌の単調さへの抵抗ではないだろうか。

(4)土岐友浩との比較

 句跨りや字足らずを多用した口語短歌で思い出されるのが、昨年歌集を出版された土岐友浩である。次の歌を見てほしい。
土岐友浩『Bootleg』(新鋭短歌シリーズ22 2015年6月・書肆侃々房)
  夕暮れがもうすぐ終わる対岸に雪柳ふっくらとかがやく
  暗くしたホールのなかのいちまいのスライドに映されるみずうみ
  紙ふぶき大成功の、安田大サーカスというひとつの星座
 これらの歌は句跨りであっても韻律を大幅に乱すものではなく、千種の歌とは対照的。土岐は定型がベースにあり、定型を利用している。これに対して、千種はおそらく最初にフレーズがあり、そこから歌を作っている。土岐とは違い、千種は定型の単調さは回避しようとしているのではないか。

(5)語順

 先日ある会で伊舎堂仁が千種の短歌について、おそらく外国語の影響を受けていて言いたいことを先に言う傾向があると指摘した。
  告げている、砂漠で限りなく淡い虹みたことを、ドア閉めながら
 伊舎堂の指摘にははっとさせられたが、その指摘が全部に当てはまるわけではない。一首一首を見ると、次の歌のようにメッセージ+景という構造の歌も多いことを付言したい。
  僕たちは狂気の沙汰だ 鍵は落ちて雪の深さへ埋まっていった (p64)
  正しさって遠い響きだ ムニエルは切れる、フォークの銀の重さに (p120)
 これらのメッセージ+景の歌が、歌集中の他の倒置の歌へ影響を与えて、単純な倒置の歌に見えないように変化しているのではないか。

(6)口語短歌の多彩化

 先日ある会で安田百合絵が千種の短歌について「多くの歌に取り返しのつかなさや過ぎ去ったものを愛惜する気持ちがあらわれている」と述べたように、同会で千種の短歌が過去志向であることが指摘された。千種の歌のように過去に思いを馳せる「イマ」、土岐の歌のように今を歌う「イマ」などを見ると、口語短歌が多彩になってきている印象を受ける。


2 荻原裕幸

(1)砂丘律の全体的な印象

 類例のない歌集だと感じた。一般的に第一歌集は、さまざまな歌人やエコールからの影響が見える。少なくともその痕跡が見えるものだが、砂丘律についてはそれが非常に見えづらい。影響されてないのではなく、影響が繰り返しあらわれることを避けたのだろう。そのせいか、方法論ごとに作品をカテゴライズするのが難しかった。以下、自分が秀歌だと感じたものを抜き出した。そこから何かが見えてくるかもしれない。

(2)素朴に見える歌

  冬の淡い陽のなか君は写真機を構えてすこし後ずさりする (p84)
 方法や技術がほとんど表面にあらわれていない。見たままだと感じさせる歌である。現実のとある日とある場所で、実際にそこに「君」がいたのを見たとしか思えない。とてもリアルな場面だ。千種が、こういう素朴さを否定していないことがはっきりわかる。
  屋上であなたが横から見せてきた地図に最初の雨粒は鳴る (p232)
 これも素朴に見える歌。事実そこでそのようなことがあったのだろうと感じさせる書き方だ。ただ、屋上や地図といったアイテムに少し演出感がある。雨粒とだけ言えば雨が降ってきたことがわかるのに、わざわざ「最初の」と強調することで強いリアリティが生じている。素朴さは見た目だけで、実は方法意識のようなものにつながっているのかもしれない。

(3)強引な修辞の歌

  別にいいのにって言葉の裏にある庭へ出てCamel数本を吸う (p255)
 初句の科白、結句の行為がわかりやすい一方で、それらをつなぐ「言葉の裏にある庭」というレトリカルな認識がかなり強引に提示されている。「別にいいのに」は誰の科白なのか判別できないが、その言葉の「裏にある」意味を考えながら「裏にある」庭に出て煙草を吸ったということが説明されなくてもわかる。読者に簡単に意味をつかませてしまうだけの力がある表現だ。この流れを論理的に説明するのは難しい。短歌でないと成立しない修辞だろう。
  手のひらの液晶のなか中東が叫んでいるが次、とまります (p163)
 「中東が叫んでいる」は、スマホで中東の不穏な情勢をめぐるニュースを読んでいた、あるいは、中東発のメッセージを読んでいた、ということなのだろう。その場面にいきなり結句の「次、とまります」があらわれる。路線バスに乗っていることは容易に想像がつくが、これもかなり強引な修辞。私だったらたぶんバスの中であることをもっと素直に見せてしまうだろう。熱中から我に帰る一瞬が生々しく読者に届けられている。
  君のシャツ干すとき君の肩幅と割れたグラスを 暮れていく朝(p33)
 君のシャツを干しながら君のことを思い浮かべる。それ自体は自然な行為とも映るが、「肩幅と割れたグラスを」の「を」で中断される話法のその中断のされ方があまりにも唐突だ。省略は短歌の基本だが、それ「を」どうするのかの情報的な重要性を無視して、強引に一字空けにすべてを背負わせる。そして朝が「暮れていく」と結ぶ違和感。意味上の価値を倒錯して、場面の空間的なリアリティを求めたのだろうか。
 このような表現のセオリーを逸脱して別の何かに向かう強引な修辞は、千種の文体の大きな特徴である。

(4)千種の作歌法

 ここには書くことに先行するテーマや方法はない。体験して得た、あるいは、情報や知識として得た、ことばのマテリアルが先ずあり、それを短歌の定型でいかに活かすかを考えるプロセスで、文体や修辞、世界観や私、が、一気に噴き上げて来たのではないか。ゆえに、どこか不安定なものを抱えながら、類型を感じさせない、自家中毒をほぼ出さない、千種創一の世界が生じたのだと考えられる。
 巧い、のだけど、たぶん熟練ではない、良い意味で職人的でない。個別の対象および書くという行為に対する過剰なまでの執着によるものだと思う。
 砂丘は、東京の隠喩であり、中東の日常を象徴している。砂丘記、砂丘譚、ではなく、砂丘律、と命名したところにも、千種の立ち位置が見える。
 方法論にとらわれることなく、テーマをどう捉えるか、語り口をどう形成するか、というこだわりがあり、現在の口語の短歌としての突出した印象も、おそらくそこから来ているのだろう。


3 加藤治郎

(1)歌集の構成について

 歌集は「瓦斯燈を流砂のほとりに植えていき、そうだね、そこを街と呼ぼうか」という印象深い一首から始まる。その連作「風化は三月のダマスカスにて」でシリアに降り立ったかのように思える。が、その後しばらく日本を回想する歌が続き、中盤で緊張感のある中東についての歌が並ぶ。そしてその後、Ⅴ章(連作「Small Talk」や「終りの塩」など)で中東でも日本でもない、中東と日本の断片が交差するような世界が展開される。作者にとっての「日本」が再現されるそばから崩れていくような感覚がある。人間の想念が実体化してしまう惑星を描いた映画、「惑星ソラリス」を思わせる。歌集は、日本、中東、想念あるいは断片としての〈日本〉と展開している。

(2)作歌の背景

 千種が「塔」に連載している「中東通信」の一部を紹介したい。


ムハンマドのしてみせた奇跡は、詩なのである。クルアーンは深い内容を持ちながら誰も真似のできない韻律の美しさを誇っている。内容と韻律の両立によって、詩を好むアラブ民衆に神の言葉を聞く耳を持たせた。
              (「塔」2012年11月号「中東通信第3号」)


 こうした神の言葉を聞くアラブや詩歌が高い地位にある共同体が、作歌に影響している。砂丘律の気高さ、清冽な韻律につながっているのではないか。日本においても、歌は元をたどれば、神と人を繋ぐ詞章だった。「神風の伊勢」という枕詞もある。しかし、千年経て短歌は大衆化した。詩歌が大衆化している日本とは違う詩歌観のあるアラブの世界がある。これが砂丘律の基盤となっているのではないか。

(3)読解

 レジュメのタイトルにも書いたが、砂丘律は「愛の歌集」である。相聞だけでなく様々なものへの愛がとめどない。ここからは連作や一首一首を読み解いていきたい。
 歌集の冒頭に連作「尼ケ坂駅」がある。尼ケ坂駅は実は、名古屋の名鉄瀬戸線の駅の一つで、住宅街にある静かな駅である。連作から2首紹介する。
  流し場の銀のへこみに雨みちて、その三月だ、君をうばった (p26)
  僕たちを追い越していく終電のひかり 君の髪は濡れてた (p35)
 若い性愛だ。高校時代が想起される。外界の雨のイメージがシンクに流れ込んでいる。瀬戸線沿いの小さな物語である。「その三月だ」という挿入が効いている。
  手に負えない白馬のような感情がそっちへ駆けていった、すまない (p63)
 白馬という語に作者の美意識がのぞく清冽な歌。結句の「すまない」は、ぶっきらぼうな口語の挿入という修辞である。歌集には、挿入が多用されていて、パーレンで括らないことで自然に読むことができる。一首が立体的になっている。
  水底が、次いで水面がくらくなり緋鯉はいつまでもあかるい (p86)
 「すぎなみ吟行」という日本で詠まれたらしい連作からの技巧的な一首。緋鯉が明るいと歌うことで、緋鯉の移動に伴って水底と水面のくらさが描写される。
 次は千種が塔新人賞を受賞したときの連作「keep right」に移る。「keep right」は、正しさを保つというような意味だろう。この連作に挟まれている詞書の数字はシリア難民の数だろうか。
  北へ国境を越えればシリアだが実感はなくジャム塗りたくる (p109)
 さきほど破調の話が出たが、この歌も意図的に上句で575を崩していている。「国境を北へ越えれば」では平板だ。「北へ」がダイナミックである。
  映像がわるいおかげで虐殺の現場のそれが緋鯉にみえる (p112)
 映像がわるいからこそ鮮烈に伝わるものもあるのだ。緋鯉は日本のイメージを喚起する。
  正しさって遠い響きだ ムニエルは切れる、フォークの銀の重さに
 なにが正義か分からない。ムニエルを切るのではなく、抗しがたい力によって、切れてしまうのである。
 このあと、連作「或る秘書官の忠誠」などで中東のドキュメンタリーのような連作が続く。しかし、「Small Talk」あたりから、望郷の念からか、日本のイメージが入り込んでくる。それは自分の想念が創り出した日本の像である。

(4)千種の作歌姿勢

 「塔」に掲載された千種の散文からその立場を読み取ることができる。
  シリアの友人たちよ。僕は銃をとって闘えない。衣も食も住も与えられ
  ない。でも、事が白と黒との二項対立ではないということを、煙草の灰
  のような色もあるということを、僕は、短歌という詩で日本へ伝えるこ
  とができる。
(「塔」2013年7月号 第三回塔新人賞「受賞の言葉」)

  中東に限らず、どの地域にも、どの宗教にも日常はある。報道される非
  日常だけでなく、報道されない日常を少し想像するだけで少し世界は近
  づく。
(「塔」2015年4月号「中東通信第三十二号」)
 これらの散文から千種は、物事が単純な二項対立ではないということ、中東の日常を伝えたいという思いを抱いていることがわかる。これは納得できる。短歌は日常を歌える形式なのだ。


4 壇上討論

(1)強引な修辞、破調

(田口)
 荻原さんの発表の中で割れたグラスの歌での一字空けが強引だという発言がありましたが、以下の歌はどのように評価しますか。好きな歌なのですが。
  紫陽花の こころにけもの道がありそこでいまだに君をみかける (p60)

(荻原)
 千種さんの一字空けは一見、塚本邦雄のそれと似ています。しかし塚本の一字空けが理屈っぽすぎるときがある一方、千種さんのはセンスに頼った一字空けですね。単に紫陽花ではなく「紫陽花の」の「の」があるのが特徴で、物と概念を提示するのではなく、何かを言いさしている感じ。その後に紫陽花にまつわる何かがあるはずなのに、あとはわかるでしょと言わんばかりに途中でやめて、こころのけもの道のことに移っている。
 田口さんからは破調の話がありましたが、私の印象では千種さんの破調は塚本邦雄の第一歌集から第五歌集あたりの破調と似ているように感じました。第六歌集以降の調べの美しさも求めた破調とは違い、千種さんの破調は「音痴」と言うか、でこぼこな感じのある破調。また、これは口語短歌の単調さに抗うための破調ではない気がします。

(田口)
 そうかもしれないです。土岐さんは定型として洗練されている一方で、千種さんのは歌のフォルムがでこぼこしている。それが珍しくてインパクトに繋がっています。もちろん、新かったり珍しいことだけが全てではないが。土岐さんは薄さを、千種さんは強さを追求しているような印象を受けます。

(荻原)
 さきほどの強引な修辞について、他にも例歌を挙げてみます。
  オーロラのつづりを知らないまま夜の舗道に滲む油がみえる (p56)
 この歌もすごくなめらかに耳に入ってくるにもかかわらず、上の句と下の句の因果関係がわかりにくいですね。なんとなく説得されそうになりますが、でもやはり「オーロラのつづり」がいったい何だっていうんだという疑問は消えません。書かれた情報以外の情報がないと読み解けないはずなのに、さも自然な語調で書いて省略があることすら示唆していない。他の素直な表現の作品とならべられていると、文体の選択が気まぐれにも見えて、千種さんが事前にスタイルを決めずに作歌していることがよくわかります。

(加藤)
 破調の話が出たので韻律に関して。
  石段は湖底へと延びこれからするであろう悪いほうの祈り (p50)
 二重の切れのある歌。すなわち、意味の律と、定型の律です。
意味の律で読むと
石段は/湖底へと延び/これからするであろう/悪いほうの祈り
定型の律では
 石段は/湖底へと延び/これからす/るであろう悪/いほうの祈り
となる。読者は、二重の律の緊張で宙吊りになる。これは、塚本邦雄が多用した技法だ。
  骨だった。駱駝の、だろうか。頂で楽器のように乾いていたな (p135)
 この「だろうか」が、先にも指摘した口語の挿入。一行の詩に異物を挿入することで文体を立体的なものにしている。

(2)砂丘律の主題

(加藤)
 ところで田口さんは修辞などを中心に話されたが、主題についてはどう考えますか。

(田口)
 実は…この歌集が好きすぎて、べた褒めをしてしまうことが予想されたので、あえてフォルムの話をしました。先日のある会ではこの歌集が「かっこいい」という声が多く、私自身も非常に強くそう思うのですが、加藤さん、この歌集はかっこいいと思われますか。

(加藤)
 うーん。かっこいいという批評用語は、ぼくにはないです。
 光森裕樹さんがTwitterで「「中東短歌」2号で作者名のない匿名として発表された「或る忠誠」という連作が、『砂丘律』にて「或る秘書官の忠誠」として収められています」と指摘していた。タイトルが改変されたこと、歌集の中でこの連作のみ旧かなであること、署名性の問題など、いかがお考えですか。荻原さん。

(荻原)
 え、ここでいきなり私にふりますか(笑) 田口さんの話に出た「かっこいい」か否かの問題、歌集名も構成も「かっこいい」と思いますよ。でも、まあ、それはダイレクトに作品の価値を左右しないんじゃないでしょうか。加藤さんの言う「惑星ソラリス」的な構成なんかも、かっこいいけど、かっこいいを突き抜けたところにその意味を探るべきでしょうし、一部旧かなとかも、仮にかっこいいの追求だったらピント外れという気がします。
 主題に関して言えば、千種さんは細かい背景や事情は見せない、というか見せることを目的としていない印象ですね。一般的には作品の世界があってそのための方法が生じる、あるいは、方法が世界を引き出してくるのですが、千種さんは世界の内実ではなくてその「枠」のようなものを見せてくるだけですよね。主題をいちばんの重点とはしていない。

(加藤)
 見せないという論点について言えば、連作「或る秘書官の忠誠」が情報開示のぎりぎりの境界ではないでしょうか。連作の次のあたりの歌に、作者があとがきで書いている「真実」がある。
  実弾はできれば使ふなといふ指示は砂上の小川のやうに途絶える (p151)
  君の横顔が一瞬(しつかりしろ)防弾ガラスを月がよぎれば (p156)
  看板はないが小径の老人はこの先が死刑広場だと指す (p180)
 実弾を使わざるを得ない環境があるという事実。指示が途絶えて混沌とする現場。死刑が公開されている環境があるという事実。事実と別のところに「真実」がいきなりあるわけではない。こうした一つ一つの「事実」の積み重ねの上に「真実」があるんだと思う。

(3)まとめ

(司会・廣野)
 まだまだ議論したいところではありますが、会場の時間制限の都合上、そろそろまとめなくてはなりません。では、荻原さんからどうぞ。

(荻原)
 私はレジュメに次の歌を引用しています。
  イヤホンをちぎるように外す、朝焼ける庁舎の屋根の旗をみあげて (p54)
 さきほどの主題との関連で言えば、この歌もリアルな場面としては伝わるけど、何の旗なのか、それは例えば死者を悼む半旗であるのかとか、日本の旗なのか、中東のどこかの国の旗なのか、そもそも何の庁舎なのかといった内実がさっぱりわからないし類推もきわめて難しい。このように社会詠的な雰囲気はあるのに、もしそうだとすると何も言い得てないわけで、思わせぶりになってしまっているところがあります。修辞に特化して突き抜けるか、主題があるならばもう少し明確にしながら踏みこんでみるか、いずれそうした選択が必要な時期がくるかもしれませんね。

(加藤)
  あなたの想念するクレヨン、そのどれも握りつぶせるほど柔らかい (p213)
 このクレヨンの歌にもある「想念」は一つの歌集のキーワードだと思います。
  抱いたあなたが山女魚のように笑うとき僕はきれいな川でありたい (p233)
  さくらんぼ食べられないのという声の記憶をうすく氷が覆う (p239)
 歌集の最後の方に置かれた連作「終りの塩」から引用した上の2首ではヤマメやさくらんぼという日本的なものの「想念」である。それは、中東の日常に生起しているものかもしれない。歌集の終わり近くは、何処にいるか分からない交錯した世界である。
  この雨の奥にも海はあるだろう きっとあなたは寝坊などして (p240)
 同じく「終りの塩」より。雨は日本の情緒だ。この歌も海の向こうの平凡で平和な生活の「想念」である。寝坊するそんな他愛無い日常が、かけがえのない。哀切な歌である。意識が生み出した像である。

(田口)
 分析の難しい歌集でした。一つのトピックを取り上げると、芋蔓式に他のトピックもずるずると取り上げざるを得なくなるような。文体や事実、修辞がすごく深いところで絡み合っている。
 また、この歌集がなぜ口語にこだわるのだろうという問題意識をずっと持っています。「感情は、水のように流れていって、もう戻ってこないもの」「感情を残すということは、それは、とても畏れるべき行為だ」という砂丘律のあとがきを読んで少し思ったのは、千種さんが本来は留まらない感情と、同じくすぐ消えてしまう口語や会話体とに共通性を見出しているのかもしれないということです。


(この記録は千種創一が作成し、パネリストの皆さまに確認頂いたものです。)

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