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枠を越える私(小島なお『サリンジャーは死んでしまった』)

 建築物や血縁関係などの枠が設定され、その枠まで、そしてときにはその枠を超えて、拡張していく巨視的な「私」の身体感覚がある。その拡張していく「私」に陰影が少ないこともあり、また、定型に素直であることもあり、全体として清々しいイメージとなっている。

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1 建築物という枠

 枠全体を把握するような建築物の歌が多い。例えば以下のような歌。

いつの日か建築物を造りたい春には人が集まるような (p11)
丘の上山羊たちの住む城ありて城壁に高く高く囲まる (p27)
マンホールに冬の陽溜まりその上をゆくとき地下まで響く靴音 (p42)
眠りいるひとびとの見る船の夢虫の夢、雪夜地下鉄進む (p68)
憂鬱な今宵湯船に浸かりつつ足の指だけ並ぶ湯のうえ (p83)

2 血縁関係という枠

 「私」を血縁関係という枠の中に認識する歌も多い。

どんなにかさびしい白い指先で祖父は書きしか春の俳句を (p41)
鉄棒にひとり逆さに吊り下がりおれば後ろに母の気配す (p46)
われが泣ききみ困りたるこの夜も祖父の眠りは清くありたり (p98)
父という暗い森母という遠い夕雲いま仰ぎ見る (p161)

引用は全て、小島なお『サリンジャーは死んでしまった』(2011)角川書店より。書影画像は角川書店ウェブサイトより。

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