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ベルリン演劇の講義9

慶應義塾大学久保田万太郎記念講座 現代芸術1
第9回授業(6月29日)

1、前回のフィードバック

●まず「Zugabe」。「1時間も拍手をし続けるって大変そう」「でも観客もお金をもらうっていいアイディアだと思う!楽しそう!」といった意見がありました。私自身の経験を話すと、なんの前情報もなくこの芝居を見に行ったので、お金がもらえるという字幕が出て来た時には、とても驚きましたし、せっかく来たからには参加しよう、と思って、めちゃくちゃ頑張って最後までずっと拍手し続けました。もちろん50ユーロが欲しかったからです!

でも、最後に名前と住所を紙に書いてお金を受け取る列に並ぶ時に、なんとなく後ろめたいような、自分が強欲な人間みたいな、変な気がしました。それで私、お金は一度もらったんですけど、そのあとでやっぱり要らないって返しに行っちゃったんですね。「私は純粋にAddas Ahmadのパフォーマンスを賞賛して拍手をしたんだからお金は要らない」と思いたかったのかもしれません。でも、そんなにいい子ぶらずに50ユーロもらっとけばよかったと、めちゃくちゃ後悔してます。考えてみれば、この企画には多分ドイツからの助成金が出ていて、舞台美術なんかのスタッフへの人件費はほとんどかからない。そしてきっと、ちゃんと観客に配る分の予算があらかじめ組んであるんです。あの場で、観客の拍手はちゃんとドイツ(か、ベルリン州)にも認められている「労働の対価」であっただろうし、そうすると私は、観客でもあるけれど、れっきとした仕事をした「労働者」です。私とAddas Ahmadは主演俳優と観客でありつつ、「仕事仲間」という関係でもあったわけで。全く罪悪感を覚える必要はなかったわけです。

もし、日本だったら観客にお金を配る(しかも障害のある役者が)という演劇なんて、ものすごく物議を醸しちゃいそうだし、きっとネットとかで「炎上」して成立しないんじゃないかなって思います。この作品は、(後でお話しますが)「人は誰でもが芸術家であり、芸術(クリエイティビティ)によって未来の社会を創造するべきだ(そのことによって対価も支払われるべきだ)」という思想と関連性があると思います。

●そして「Nau Frágil」。みなさん、「私だったら薔薇はもらう」「もらわず、通り過ぎてしまうかも」などなど、考えてくださいました。別紙の最初に載せた学生の感想で、「見ていいものなのか迷ってしまう気がする。差別を見て見ぬふりをして通り過ぎる人間の心理と重なっている」というのがありましたが、実際に舞台を見た私の感覚に近い気がします。
Prischilaさんは、この薔薇を渡すパフォーマンスを1時間半近く、続けていたわけです。で、観客も順番に薔薇を受け取って行くんだけど、それしか起こらないから、だんだん観客も間が持たなくなってくる。フェンスの中をうろつくPrischilaの表情も、なんだか苛立っているように見えてきます。すごい緊張感でした。とても耐えられない....と思った私は、床に座ったまま、じょじょにフェンスににじり寄って行きました。

飽きて帰る観客も出始めるんですけど、悪いことに、それが白人のちょっと裕福そうな身なりの男女だったりすると、いかにも「囚われた黒人の女の子を見捨てて去る残酷な白人のお二人?」、なんてステレオタイプに見えて来ちゃったりするわけですよね。でも彼らは用事があったのかもしれないし、観客は舞台を自由に見て良いわけで、罪なんかない。でもそれがPrischilaのアートの面白いところで、ちょっと見て帰っただけの観客ですらも、ただの無色透明な傍観者にはなれなくて、いつのまにか、肌の色とか服装とかからキャラクタライズされてしまう。でも考えてみれば、肌の色だけで非難の目を浴びかねないというのは、特に黒人が日常生活で常に経験してることです。

写真を見てくれたら分かるんだけど、足元の床からフェンスまでにはけっこう隙間があります。彼女が自分で出ようと思ったら、出られそう。でも白い薔薇が敷いてあるよね。観客は薔薇をもらった時によく分かるんだけど、かなり鋭い棘がある。踏み越えて出ようとしたら足の裏を怪我しちゃう。
いつの間にやら私の頭の中に、「もし私が立ち上がって、薔薇をどかして道を作ってあげたらどうなるんだろう?」っていう疑問が湧いて来て、実行したくなってきました。でも作品に介入するってものすごい勇気が要ります。想像するだけで汗が出た。何よりPrischilaのやりたいアートを邪魔しちゃうかもしれないってことがブレーキになりました。けれども、さすがに1時間半近く何も起こらないので、もう「やろう!」と心に決めました。

後半、Prischilaは観客と順番に目をあわせていたのね。それがなんとも言えない、ギラギラと燃えるような瞳なんです。次に私と目が合ったら動こう、と決めてフェンスのすぐ近くで待機してたら、とうとう目が合った。私は、思い切って自分の手と足を伸ばして、フェンスの下の白い薔薇の花をどけて、彼女が通れるぐらいの幅を作ってあげました。そしたら、彼女はそこへ数歩踏み出してきて、フェンスの下から手を伸ばして、私の手を握りました。そのままぐいっと腕を引っ張ってあげたら、あっけないぐらいにスムーズに彼女は檻の中から出て来ました。

そのとき、冗談みたいにパッと照明が変わって私たち2人にスポットライトが当たった。Prischilaは私にぎゅっと抱きついて耳元で「Thank you」と言いました。その声は、さっきまでの睨みつけるように強い眼差しの持ち主とは思えないような、小さくてか細い、震えるような声でした。(きっとすごい緊張感で1時間半、檻の中にいたんだと思います。)そしてサッと私から離れて、劇場の黒い幕の向こうに行ってしまった。
観客が拍手をしたので、私も幕の向こうに拍手しました。他の観客には「最後に人の良いアジアの女が現れた? 本物の観客か、仕込みか?」とか、邪推されてたかもしれません。恥ずかしかったので、一緒に来てた友達と急いで劇場を出ました。

この作品は本当に社会における様々な状況を示唆していると思います。例えば、「檻には隙間があるにも関わらず、自ら出てくることはできない」というPrischilaの状態は、私に「暴力や虐待を受けている当事者が自らその境遇の外に出ること、声をあげることの難しさ」を連想させました。例えば日本で性暴力を受けた人が警察に届け出て「なぜ咄嗟に拒絶して叫ばなかったのか。強制ではなく合意があったのではないのか(頑張ったら逃げられたんじゃないの?)」って言われて、訴えを取り下げられるケースがある、と聞いたことがないでしょうか。しかし、そういう場合、声をあげたら殺される可能性すらあるわけです。暴力というのは、当事者を恐怖ですくませるものです。加害者からの支配の檻の中にいれば殺される心配はない、となれば、変化を恐れて、加害者に支配された状態であり続けることを選んでしまう人もいます。恐ろしいことですけれど、人間の心って、望まない支配を受け入れる方向にも容易に動くんです。

第1回・第2回講義でドイツ憲法を扱った際に、「人間の尊厳は不可侵である」という条文が出て来ましたが、人の尊厳が守られ、心が自由でいられる状況を保つのって、ものすごく難しく、だからこそわざわざ憲法に書くぐらいみんなで必死で守らないといけない。人々はそれを歴史から学んだ結果、「基本的人権」を保障する「近代憲法」を作った。第1回と2回の講義でも話しましたが、私たちが今生きている社会の枠組みの、重要な前提事項です。

檻の中を歩き回っているPrischilaをただ眺めているしかない1時間半の中で、私は「虐待や暴力の起こっている現場では周囲の介入が必要になることがある」ということを連想した。どの観客にとっても苦しかった時間じゃないかと思いますが、それぞれが思考を深めたであろう、濃厚な上演時間でした。ただし、付け加えておきたいことがあります。後日、Prischilaにビデオを借りるためにメールして、他の日のパフォーマンスがどうだったか聞いたんですね。ポーランドのフェスでは、劇場公演のベルリン版とは違って野外で行われたのですが、一度、通行人の女性が助け出してくれたそうです。ベルリンでは2回公演を行なったそうですが、初日は誰も作品に介入せず、プロデューサーが助け出してくれたそうです。私もその返事として、彼女に感想を書いて、ついでに上に書いたような日本の性暴力被害者のことも書きましたが、あんまり日本の状況に引きつけて語るべきではなかったと後悔しました。作品の本題とは、かなりズレた感想だったかもしれません。
広く暴力や差別について、考えさせられる作品ではありますが、あくまでもこれは黒人に対する人種差別と植民地支配の歴史を扱った作品であることは、強調しておく必要があります。今起こっている「Black Lives Matter」という運動は、もう何十年、何百年単位で変わらない、黒人差別へのプロテストです。黒人が普通に生活するだけで命の危険を心配せねばならない場合があり、警察とちょっと接触するだけで、殺される可能性すらある。それを、たとえば日本の性差別と同列に語ることはできません。「どっちが大変か」なんていう問題の立て方自体が間違っていて、個別の問題として扱われ、それぞれの当事者の声が聞かれるべきです。ただ、違う立場同士として連帯できる余地はある....というか、そう信じたいですよね。そういう「連帯」の考え方を共有する人たちの間で、今も運動の連鎖が起こっているわけです。

2、「オーバーハウゼン失業者バレエ団」 Thomas Lehmen

今日はまた作品を二つ紹介したいと思います。(作家のお二人には、来週の講義のゲストに来てもらいます。)
まず「オーバーハウゼン失業者バレエ団」は、私が2019年3月に参加して、出演もしたダンス作品です。ドイツのオーバーハウゼンという町で制作・上演されたんですけど、ここは、振付家のThomas Lehmen(http://www.thomaslehmen.de)の地元です。彼はベルリンや他のヨーロッパの都市でも活躍し、またアジア、アメリカ大陸など世界各国を旅して作品を発表してきたんですが、地元に戻ってきて改めて町の変化に気づきます。オーバーハウゼンは19世紀から鉄鋼業・石炭工業で栄えた「ルール工業地帯」の一部ですが、戦後数十年経って、重工業がじょじょに下火になって以降、街は老人か移民・難民ばかりで、ドイツ人の若者が全然いない。日本の地方都市ともよく似た状況ですが、個人の店は潰れてシャッターを下ろしており、あとは他のドイツの都市にもごまんとあるような、同じ巨大チェーンのマーケットや洋服メーカーだけが並んでる状態です。
そこでトーマスは市役所と交渉して、オーバーハウゼンの商店街に、アートスペースを作りました。そして、2017年から「"Brauchse Jobb? Wir machen Kunst!" (仕事が欲しい? 私たちはアートを作る)http://brauchsejobb.de」を始めました。これは「応募してきた人は誰でも、報酬をもらってアートを作れる」というプロジェクトです。
広告を見た大勢の町の住人が応募してきて、絵を描いたり、オブジェを作ったりしました。その中にはシリア、イラク、コソボなど戦争の災禍から逃げてドイツにやってきた難民も含まれています(移民・難民を雇った企業は国から支援金がもらえるという事情もあって、それでオーバーハウゼンのような地方都市にはたくさんの難民が住んでいる)。いくらアートをやりたいと思ったって、みんなが裕福で生活に余裕のあるわけじゃないし、なかなか時間が取れなかったりする。でもこのプロジェクトでは、やった分だけ賃金がもらえる、ということで、普段は仕事や育児で、てんてこ舞いのオーバーハウゼンの町の人も、トーマスのアートスペースに訪れ、そこでトーマスとお茶を飲みながら相談をし、それぞれが好きなアートを作りました。

たとえば、カタログの中にも登場するRosanという女性は、シリア出身ですが、彼女は子供の頃から独学でずっと絵を描いていた人です。このプロジェクトでは(下のような)ISに破壊された家の絵や、老人の手の絵などを描きました。彼女いわく、ISの男性は、女性に殺されると地獄に落ちると信じていて、女性の反撃を恐れるのだそうです。だからこの絵の中央の女性はヒジャブの向こうから強い眼差しでじっと前方を睨んでいるのです。この、町の人たちとのアートのプロジェクトが終わった後、2019年3月にThomasと住人たちは、これのダンス・バージョンを行いました。" Oberhausener Arbeitslosen Ballett(オーバーハウゼン失業者バレエ団)“ です。13人の出演者は、ダンスの稽古に出たぶんだけのお給料がもらえる、という条件でこのプロジェクトに参加しました。町の市民体育館を会場に、それぞれが自分で考えた踊りを披露し、楽器も演奏しました。出演者はそれぞれが「宇宙から、何らかの仕事をするために、オーバーハウゼンにやってきた神様」という設定で、手作りのちょっと派手な衣装を着ています。

江本純子さんがゲストにきてくれた回で、ヨーゼフ・ボイスの話を少ししました。ボイスは、「人は誰でもが芸術家であり、未来の幸福のために社会を『彫刻』するべきだ」という思想を持つに至ったアーティストです。現代ドイツにおいて「芸術」を語ろうとするとき、ボイスのような「人間はみんな芸術家。そして芸術こそが社会を作る」という考え方は、かなり多くの人々に共有されているように思います。Thomas Lehmenも、この作品の冒頭の「マニュフェスト」で宣言しています。「人が芸術の仕事をし、その働きに対価が支払われることは、オーバーハウゼンにとって重要だ。(中略)生き生きした文化には、この仕事が不可欠だ。」Thomas はこのプロジェクトで、芸術と社会の関わり、芸術とお金(経済)の関わり、という大きな命題にダンス作品の形で一つの回答を示しました。では、別紙2 のカタログ、別紙3 のカタログの日本語訳を見ながら、課題のビデオを鑑賞してください。

3、田中奈緒子「光を投げる女」

そしてもう一つ作品を紹介します。「オーバーハウゼン失業者バレエ団」にも、ダンサーとして出演している田中奈緒子さんのインスタレーション作品Die Scheinwerferin(光を投げる女)です。彼女は東京出身の日本人アーティストですが、デュッセルドルフの大学で学んだ後、ベルリンを拠点としてヨーロッパを中心に作品を発表しています。光と影を操ることで、鑑賞者の視覚に揺さぶりをかけ、意識の拡張を促す彼女の作品は、もちろんライブで見てもらった方がいいものですが、それを踏まえて動画を鑑賞してみてください。田中奈緒子さんのプロフィールはこちら。
https://ja.naokotanaka.de/------about

第9回課題

1、「Erstes Oberhausener Arbeitslosen Ballett (オーバーハウゼン失業者バレエ団)」Thomas Lehmen 
(noteでは映像なし)

2、「Die Scheinwerferin(光を投げる女)」田中奈緒子
https://ja.naokotanaka.de/-die-scheinwerferin-

以上、二つの映像を見て、気づいたこと、考えたことを書いてみましょう。またトーマスと奈緒子さんに質問があったら書いてください!

<学期末の試験レポート課題> 

こんなふうに設定しました。
「舞台芸術評論を書く」
授業で取り上げた舞台芸術作品のビデオ、もしくはご自身が 「直接ライブで」見たことのある舞台芸術を一つ取り上げて、舞台評を書いてください。ただし、その際に「必ず」評論対象とする作品と関連のある、社会的なテーマを見つけ出して、芸術と社会の関わりについて合わせて論じるようにしてください。たとえば授業では、憲法と基本的人権、フェミニズム、障害のある人と共に創る演劇/Integrationstheater、行政の芸術支援、演者と観客の権力関係、コンテンポラリーダンスの誕生に至る歴史、などなどのトピックを取り上げました。授業に出てきたテーマでもいいし、それぞれの評論対象にふさわしいテーマがあれば、それで書いてみてください。
400 字×3 枚からで良いですが、あまり短いと評価しづらいので、できれば5-10枚くらいは書いてほしいです。また、自由に題材を選ぶ場合は、見ていない人にもわかるように、特によく文中で内容を解説してください。


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