◇鑑賞と感情と身体反応

物語を構築する要素や、文章を構成する語句などを冷静に見つめ、読み解いてゆけるひとに憧れを抱いていたりします。感情を差し挟まず、客観的に、理路整然と語れるひと、と言ってもいいかもしれない。

わたしはまず感情が先に立つタイプです。時にオーバーだと言われることもあるほど、感情が強く反応する。
涙をこぼすのはしょっちゅう。でもそれだけじゃない。
声を上げて笑ったり、心拍数が上がったり、鳥肌が立ったり、びくり肩を震わせたり、目の前が暗くなったり。さまざまな感情が、いろいろな反応を身体にもたらしていく。

そして、それを切り口に、物語に踏み込んでいったりする。
肉体に干渉するほど感情が動く場面って、つまりは強く何かを感じている箇所だから。
ここまで強い反応でなくても、鮮明な情景が見えただとか、語句・言い回しに色や温度を感じただとか、何がしかの感覚を抱いた箇所もヒントになります。
なぜ感情が反応したのか、何がそうさせたのか。を深く考えていくのもひとつの手。
似たような色を見る場面に、共通項を探していくのもひとつの手。
そんな風にして得られた情報を元に、さらに深く潜り込んでいく。その繰り返し。

だから基本、わたしが何らかの作品に言及しているときは“感想”です。感じたこと、想ったことを言葉に起こしているにすぎない。
繰り返されるフレーズに着目したり、表現の些細な差異に注目してみたり、物語の構造や構成に目を向けてみたり、という読み方もしなくはないのですが……論理的に読み解いていくひとと比べたら、まあ雲泥の差です。彼らと話をしていると、いかに自分が感情と感覚で生きているか思い知らされる。

ただ、感情を差し挟まず読み解いていけるひとに憧れがあると言っても、感情から読み解いていく自分のことが嫌いなわけじゃあないんです。もしかしたら、隣の芝生は青い、ということかもしれない。あるいは、感情的に読むことも、感情を挟まず読むことも出来れば、そのぶん物語の見方が増える。わたしは、物語を味わうことに対して、欲張りなのかもしれませんね。