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時間が経つに連れて味わい深く歯応えのあるもの。味わいを理解したくなり再び口にするもの。

「古典とケーキ 甘い再読 愉悦の読書案内/梶村啓二」

「グレーテルのかまど的なものだろうか?」という安直な予想と「どんな経緯でこの表題なのだろう?」というわくわく感をきっかけに手に取った。

それまで『古典』というと漠然と『大昔に書かれたもの』と思っていた(余談だが好きな古典はとりかえばや物語、宇治拾遺物語の「児のかい餅するに空寝したる事」である)
『ことのはじまり』にて語られている『著者だけでなく古典の後ろには今日までの読者が守護霊のよう堆積しており、その守護霊たちが読み返したくなっている、即ち読むように背中を押され読んでいる』というような内容を目にしてハッとした。
後世に読まれるからこそ、読み返したくなるからこそ『古典』なのだと。

まず角田光代先生の『本は人を呼ぶ』というお言葉を思い返した。
続いて『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』にて水木悦子さん、赤塚りえ子さん、手塚るみ子さん語られていた『作品は生きているうちに作るからこそ輝く』『名前は見聞しているけど作品は観たことがないという実情を受け入れ、次世代の人々が読むからこそ彼らの作品は生きていく』ことを思い返す。
総じて今日までの小説、漫画、ドラマ、絵本、絵画、音楽、映画等々のアート、アートだけでなく技術、服飾、料理たちは先人たちの作品を基盤として創造され、またその作品たちを機に先人たちの作品が今日まで語り継がれ引き継がれているのだと再認識する。

この見解を回想する時さらに回想することがある。語り継がれずにいた物語、作品たちは一体どれだけあるのだろうと。そう思うと今日までに語り継がれ、引き継がれ、読み継がれているものたちの残存に尽くしている人々の努力に感服する。
本を読んだり音楽を聴いたり絵画に触れたり、料理をしたり服を買ったりするのはその努力を無意識に記憶したいという欲があり、守護霊の形跡を見たい、守護霊の仲間入りをしたいという欲があることに気付く。

としんみりとしながら読み進めていくと『古典の読破は骨の折れる作業である』とあった。確かに時代背景や言葉の理解に脳も体力も使う。
『読書に疲れるとお茶が欲しくなる』確かに、茶葉抽出物やコーヒーの類で一息つきたくなる。
『すると、甘いものが食べたくなる。』
……そうきたか。
『幸い、まだランゲルハンス島に起因する悩みは免れている。』
このユーモアに軽く吹き出した一方それは片足を突っ込む手前なのではとも思いつつ、中盤〜終盤の古典についての見解の後の梶村先生のスイーツ一興が好ましい。
と、『ことのはじまり』の感想がここまで。さあ。新たな視点の読書案内の幕開けだ。

2幕まで読んで『古典とケーキ』のふたつ目の意味を発見した。
古典のテーマ、そのテーマを形容するスイーツと梶村先生のスイーツ作りの記述がそれだと感じた。

案内読了後、『古典』とは飾り気がなく材料も素朴だが、守護霊か憑き、それに伴い時間が経つに連れて味わい深く歯応えのあるもの、もしくは初読時はその味わいが理解できなかったが時間が経つとふと「あれは一体なんだったのだろうか」と思い出し味わいたいを理解したくなり再び口にするものなのだのだろうとも思った。まさしくスイーツであると感じた。

あとがきの小噺がさらに洒脱で好ましく、本の旅、スイーツの旅の面白味を表していた。

春は古典の季節とお聖さんは仰る(源氏物語だったかな?)
思えば、受験としての古典漬けの日々から次のステップへの幕開けとして新たに目にする古典との出会い、グリム童話や古事記に耽溺した時期もお聖さんの「むかしあけぼもの」を拝読したのも春だった。
彼岸入り近くになり春の訪れを感じる今日この頃。お聖さんの言葉に加えて本作を機に古典巡りをしてみようか。

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