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12月の感想

「スヌー物語-浜辺先生ぶーらぶら-/田辺聖子」
面白い。お聖さんとカモカのおっちゃん、スヌー、オジン、ローズマリーのホームコメディだと感じた。
その中にも「努力は才能。叶わないことが8割」「どっちゅうこと、ない」「ええかっこうしい」「生まれつきはどうしようもない」といったアフォリズムがぴしゃりと織り混ざり「そうなんだよな」と頷くこともあれば、自省することもあり。

ここでも台湾のことを目にし、台湾に呼ばれているとも捉えられるし台湾に行きたい気持ちが強すぎて引き寄せているようにも思えた。

「横道世之介/吉田修一」
「泣きたくなるような青空」で吉田修一先生が語られたことを機に読みたくてうずうずしていた。

祖母の言うように「いつもどこか抜けているがその分欲がなく」加藤の言うように「出会った人生と出会わなかった人生、どちらにしても何も変わらないただの青春時代に出会わなかった人がこの世には大勢いるのかと思うと、なぜか自分がとても得したような気持ちになってくる。」そんな人物が「横道世之介」であった。

世之介の行動、目にしたもの、心情が淡々と観察され、当の世之介は何かを成し遂げて名を広めてやるといった意気軒昂さは皆無で、かと言って周りに流されることも飲み込まれるのこもなく何となく過ごしている姿がなんとも好ましい。

「誰かを傷つけたことがないんじゃなくて、傷つけるほど誰かに近づいたことがなかった」と気付く世之介を見て、程よい距離感で付き合う世之介に羨望していた。

「大切に育てるということは「大切なもの」を与えてやるのではなく、その「大切なもの」を失った時にどうやってそれを乗り越えるか、その強さを教えてやることなのではないか」と思う祥子に人生の教訓をまたひとつ改めた。

不謹慎で大変申し訳ないが世之介と出会った人々の数十年後の場面が挟まれる時、「パレード」のような覆りがあるのかとハラハラもしわくわくもした。

人生を全うする僥倖を世之介は示したと感じる。世之介に出会えてよかったと心から思った1冊であった。

「私にふさわしいホテル/柚木麻子」
今回も柚木麻子先生のエネルギッシュでコミカルなテンポでさくさく進んでいく文体が心地よい。

三十路間近もとい過ぎると長年の夢を果たすことはしんどくなる。加代子にあったのは貪欲さと有り余るエネルギーだけでない。積年の怨みもあった。

努力神話、純粋に夢を追う闘うヒーロー、ヒロイン像は一切なく、他者の才能に嫉妬し僻み、周囲の指摘を疎ましく思い、同族嫌悪も抱く。相手の欠点が見えるのは己がそうであること、反対に羨望もあること。負の心を一切包み隠さず綴ることも柚木麻子先生作品の魅力と改めて感じる。

負の感情を認めることはとても強いことなのだと。

東十条と加代子のやり取りが面白いこともあればしんみりすることもある。

交流があるというとある先生の登場に「おおっ」と感激する場面もあり。

何かを失った加代子だが、自力で這い上がり、売り込んだだけでなく周囲に支えられたことを振り返る姿にまた心を打った。

「ゴッホのあしあと/原田マハ」
『フーテンのマハ』にてゴッホに近寄るのが怖かったと語られていたことを機に手に取る。
『フーテンのマハ』がバックステージであれば、本著は舞台本番のように感じた。

まず『アートの力』について語るマハさんがとても素敵だ。『フーテンのマハ』に続いてマハさんのアート小説、アーティストへの心意気を感じた。

ゴッホは「寂しさ」に抗い踠いたのかと思っていたがマハさんの解説を読み、金槌で殴られた感覚になる。努力をすることは天性の才能だ。ゴッホはその才能をもった人だったのだと知る。

求める仲間が現れない「寂しさ」に悩む一方、「夜のカフェテラス」「ローヌ川の星月夜」「ラ・クローの収穫風景」「アルルの跳ね橋」についてのマハさんの解説にまたもや『ソリュテュード』を見出した。

マハさんのアート、画家の解説は人生、人物像を深く洞察され、そこから滲み出てくる社会背景、情勢等をきめ細やかな文体と言葉で綴られているように感じる。その風光明媚さに惚れ惚れとする。美術館を巡る時はマハさんのアート小説、解説を片手に巡りたい。そう心に誓った。

あとがきにて9月に拝読した『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘/水木悦子、赤塚りえ子、手塚るみ子』に続き改めて「作品が生きること」について触れ、この数年間の情勢がそれを痛感させるものがあると感じた。

「あつあつを召し上がれ/小川糸」
好きな言葉のひとつに岡野昭仁さんが『食堂かたつむり』の帯コメントで綴られた『毎日口にするごはんにこんな物語が詰まっているなんて気がつかなかった。これからは大きな声で「いただきます」と言いたい。』がある。

行成薫先生の「本日のメニューは」柚木麻子先生の作品に登場するご飯たち、そして小川糸先生の作品はまさしくそれで、食材、食事には物語が溢れていること、その魅力を感じる。

読むとその豊かさ、温かさが心に沁み渡る。入江麻木さんの『さあ、熱いうちに食べましょう』のように、『あつあつを召し上がれ』は小川糸さんの心意気も込められている気がした。

どの小説も旅情を感じていたら掲載されていたのが「旅」という雑誌だったそうな。なるほど、である。

「何も持たずに存在するということ/角田光代」
読み切ることがとても惜しく「まだ終わらないで」と願いながら読み進めていた。そのくらい言葉、表現、ひとつひとつが美しく儚く、そして強い。

それまで定食の型で摂っていた食事はいつの間にか味気なく感じるようになり、アカエボシ方式となった。
「父とアカエボシ」に頷いたのは言うまでもない。

「もう夏なのか!」で己の季節の変わり目のバロメーターは何かを振り返り、それを感じることの贅沢が身に沁みた。

「ボクシング観戦」で「はじめて」即ち「知らない」等々を知り、自分が不足していることに愕然とする。敗北感に卑屈になることを受容し、伸び代に活力を得ることもあるなと感じる。

ある日飲食店で目にした80歳くらい過ぎの2人のご婦人が40数年前のご主人の許し難きことを延々と嘆いている姿に角田光代先生は、何十年も前のことを昨日のことのように愚痴っていたいものだと、妙に頼もしい心持ちで店をあとにしたという。そういう年の取り方もあるのかと共感し、粘着的記憶力という呼称に思わず笑った。
そういえばマハさんも電車で見かけたマダムたちが家族の愚痴を延々と語り活力を得ている姿を見たというようなことを思い出す。
「家族旅行今昔」にてお母様が文句を言っている時は楽しい気分だと綴られていた。それと同様のものなのだろうかと考える。

記憶(「卒業の静けさ」)、他者の怒りはその他者のもの(「困る」)、献立、食事についてのお考えに賛同だ。そして、本を読むことは知ること、世界を創ることだというお考えに深く共鳴し、そのことがとても嬉しく思えた。

表題のエッセイを読みハッとしたことがあった。
数年前、当時の上司がクライアントについて「あの人から資格を奪ってごらんなさい。何も残らないよ」とこぼしていたことがあった。当然のことであるのに当時の己はそれが己に向けられたらと仮想して慄然とした。存在を否定されることにひたすら恐怖を感じた。今となってはその上司は承認不安を抱いていたかもしれない、自分自身の資格に恍惚していたのかもしれない、クライアントを貶したかっただけかもしれないと考えるが、しばらくはその言葉に囚われ、存在意義を見出だし自己正義に躍起になっていた。
しかしいつからか放たれていた。自分は自分。それでいいのだと。負け惜しみもあることは承知で、資格があろうがなかろうが、名誉や実績があろうがなかろうが、それは限定された世界に通じるものだった。

本当の意味で大人になることは難しいと拝読して実感する。だからこそ、年を取っていきたいのかもしれない。改めてそんなことを思った。

「朝のこどもの玩具箱/あさのあつこ」
『謹賀新年』の麻衣子さんと杏奈が友だちのようや関わりから、この先の未来を共にする存在になる瞬間がとても温かい。年の瀬特有の心地よい寒さがその温かみを増していたように感じる。

『ぼくの神さま』では父を始め特定の村人たちの命を奪った奇病の発生源の探りに出るフユンの姿は、父のトート、村医者のフン先生の遺志を継いでいるだけでなく、フユン自身の強さに胸を打つ。

『がんじっこ』と詰られる老婆と自身を押し殺し周囲に流されるままの女性の互いに共鳴する姿に世も捨てたものではないと思う。

『孫の恋』は狐の世界の妖めいたファンタジーだねでなく、人も狐も儚く、明るい光を持っているものだと感じる。

『しっぽ』は因果応報の教訓かと思いきや、仕返しの対価の恐ろしさ、信じられる他者がいることに気付く小学生の心の成長を描いたものだった。

『この大樹の傍らで』は樹木への崇高な思い、生命の尊さを見た。

「ヴェノム-レット・ゼア・ビー・カーネイジ」
寂しさを共有したい存在、己を肯定してくれて受け容れてくれる存在、甘えさせてくれる存在を欲することが狂気になってしまうことに慄然とする。慄然とするのは狂気に至ってしまうことはもちろん、身近、己にも起こりうることだという恐怖でもある。

エディとヴェノムの意地の張り合いが似たもの同士でかわいらしく可笑しい。近すぎる関係というのは同族嫌悪による歪み合いのしんどさがある一方、それが性に合うという関係もあるのかと見た。

それにしても、前作に続きダン先生が客観性に長けていて非常に心の清い人で驚きで震撼する。どんな徳を積めばそうなるのだろうかと思う。

「ねじまき片想い〜おもちゃプランナー・宝子の冒険」
様々な片想い、その片想いを報いるために行っていることは自己満足であること、何の解決にもならない自己憐憫であることと省察し、「自分の心にねじを巻いてくれるのは自分だけ」と気付く人物たちの成長に幾度も胸を打つ。

『あまからカルテット』以来のコメディタッチのミステリーにわくわくし、ちょうどヴェノム観賞後だったので「スパイダーマン」の登場に、マーベル繋がりでなんだか嬉しくなった。

「あなたとわたしは違う人/酒井順子」
至極当然のことを酒井節でどのように展開されるかを楽しみに捲る。

『入れたり出したり』の女人に特化した分別に感じた。

人生背景、性質、時代を掘り下げ解析されることは勿論、軽妙で洒落た語り口。毎度酒井順子先生ワールドが心地よく「ほうほう。そういう視点もあるのか」と頷く。
「白黒つける」といった一刀両断でなく「他人と違って当たり前。お互いそのことを理解して各々の世界を愉しんでいきましょ」という心構えは、完璧主義、猪突猛進、ええ格好しいになりがちな器質をふと和らげるものだと思う。

本著発行時酒井順子先生は31歳。数十年前の他者の発言に「つまんねえ奴だな」と毒づいたりムッとしたり、「ケッ」と思ったこと、不理解を示したご自身を客観された姿にまたひとつ、『年を取る』ことを観たのであった。

『裏が、幸せ』『ねじまき片想い/柚木麻子先生』『何も持たずに存在するということ/角田光代先生』にもあった自分自身のガソリン、過ごし方について共通する事項があり、同一のことを異なる言葉や表現で実感する面白さを味わったのであった。

「アンソロジー ビール」
アンソロジーを読む度に一つの物事、テーマから千差万別の視点、展開、発想、考察があることに感動し、その広大さに魅入る。

泡、生の定義、ビールが喉を通るまでの道程、ビールを通した交流、枝豆から観たビール、異国とビール、旅とビール、そもそもビールとはなんぞや……

好きな先生方は勿論、新たに目にする先生との出会いもまたアンソロジーの魅力と思った一冊であった。

「春、バーニーズで/吉田修一」
「最後の息子」のそれからの4編と「楽園」の過去の人物を回想する男のある生活の一場面に、多くある選択肢の中で今の人生を過ごしていることについて考える。

その選択肢を取る瞬間は意図的に立ち会うことがないことが殆どであろう。何を選んでも後悔することもあればよかったと思うこともある。ハズレなのか当たりなのかもわからない。他者の生活を垣間見た時「そんな人生もあるのか」と発見したり「その人生を歩んでいたかもしれない」と仮想することもある。

ふと過去がフラッシュバックしたり、何のワケもなく日常から抜け出そうと思い立つこともある。

生きていくことはなんと孤独で心地よいものだろうと感じた一冊であった。

「宝島-HERO'S ISLAND-/真藤順丈」
HIROKIさん(ORANGE RANGE)を機に手に取る。

まず「HERO'S ISLAND」に疑問を抱く。このサブタイトルが示すものは何かと。

偶然か必然か本土復帰50年の節目が近付く時に出会った意味も問うことになった。

沖縄の人々が受けた屈辱、植え付けられた恐怖、踏みいじられた尊厳。基地問題を表面でしか捉えていなかったことを痛感し、高校時代の日本史教師が「昔から日本は北と南にやさしくない」と発言していたことを思い返す。

同情はお門違い。知って何をするかが先人たちの血の滲む思いの上に、現在を未来を生きる者の課題なのではないかと感じる。

沖縄の方言が生々しさをより醸し出し、一方で粘着質な陰鬱さはなく、時折どこかおどけた雰囲気がある文体は、語り部(ユンター)目線であることも影響しているためであろうか。

沖縄を始め、戦中、原爆、アイヌだけでなく、現代でも耳と目を塞ぎたくなる惨状が各地で起こっている。

それらを伝聞するたび、何かを拍子に自分が「そこ」にいることだってあった、「無関心」「無知」であっても「無関係」ではないことに慄然とする。

読了後「宝島」「HERO'S ISLAND」の意味が沁み渡り、この一節が浮かんだ。

そう誰のものでもない 奪い合いの寂しさ
風灯らす/ORANGE RANGE

NHK沖縄放送局「本土復帰50年」テーマソング、日本復帰に揺れる1970年代の沖縄を描いた映画『ミラクルシティコザ』主題歌を担当したORANGE RANGEが何を感じ、伝えていくのかも観ようとも思った一冊であった。

「おいしい文藝 ちょこっとおつまみ/河出書房新社」
「おいしい文藝」にまず魅入る。とても好ましい。

酒の肴のこだわりについて様々な世界が垣間見れて趣があった。酒飲みの人もそうでない人も食べることが好きな人は多いであろうし、角田光代先生の仰る「おいしいものを怒りながら食べる人はいない」ということに通ずるような気がする。

おいしいものは酒にも心にも豊穣をもたらし、活力が湧くものではないだろうか。

ただ空腹を満たすものではない。それが「食べ物」もとい「おいしいもの」の力だと改めて考えた。

「食味風々録/阿川弘之」
阿川佐和子先生、「アンソロジー ビール」を経て拝読に至る。

食べ物を通した阿川弘之先生の記憶の随筆は、時代の郷愁を感じて心地佳い。文献学風の内容もあってまた楽しい「その先生とご交流されていたのか!」と新鮮さと嬉しさを感じることもあり。

「風々」と題する通り、食のこだわりが時に偏屈で頑なで人間味に溢れているのもまた好ましい。

『ハワイ美味』に記された京都の古い料亭の女将さんの『屏風と食べ物屋は拡げたら倒れるでえ』はまさにアフォリズム(某チェーン飲食店の顛末を思い出し納得していた)

阿川佐和子先生との対談は、父と娘だけでなく、文藝家として、職人として、他人同士として、そして人として話すことの僥倖を垣間見て面白かった。

「たゆたえども沈まず/原田マハ」
『たゆたえども沈まず』まずこの言葉は『ゴッホのあしあと』で知った。なんと厳かで強い言葉だろうか。生きる上で大事にしていきたいことだと感じる。

『ゴッホのあしあと』を機に手に取った本著は、マハさんのアート小説への心意気はもちろん、ゴッホ、テオ、林忠正、そしてその時代を生き抜いた人々、これからを生き抜く人々への敬意に満ち溢れていた。

先に『ゴッホのあしあと』を拝読し本著に至ったためか『あの部分がこの場面になったのか』『この場面でマハさんはあのように感じたと仰っていたな』と回想し、『ゴッホのあしあと』はマハさんによる解説本だったのだなと感じる。加納重吉という案内人の登場もまた心地よい。マハさんが『フィンセントとテオ、林忠正に直接的な関係があるということはどこにも記させていないがそれぞれは存在を知っていたのかもしれない』というように考察されていたこと、『フィンセントに日本は貴方のことが大好きですと伝えたい』と仰っていたことも回想する。マハさんのフィンセントへの愛、林忠正への敬意、アートへの情熱は加納重吉を通してフィンセントと林忠正に伝えられたのだと感じた。

『ジルヴェーニの食卓』との繋がりも見え、なんとも贅沢な気持ちを味わった。

この贅沢な気持ちを味わえるのはマハさんによるマジック、そしてそれが魅力であると感じた一冊であった。

余談であるがここ数ヶ月はパリ、台湾、今月は沖縄に関する本に巡り合う確率が高い。
『華やか』『賑やか』『明るい』の代名詞を持つそれぞれだが、以前からどこか影を感じていた。その理由が判ったような気がしたこと、光と陰は表裏一体であるという一説をまた垣間見た気がしたのであった。

「キングスマン ファースト・エージェント」
ある人物たちを観て戦争がもたらす惨状にまず慄然とする。

前に進まず自己憐憫に耽ることから脱するためには己を省察し世界を洞察し闘うことだというアフォリズムもまた観た気がした。

個人的にアクションシーンが「始まり」にちなんでいるためか1作、2作目より垢抜けない雰囲気を感じて心地よかった。

公爵とショーラの友情に胸が一杯になることは勿論、個人的に推したいのはポリーである。闘う女性は佳きものである。


「ナイ●メア・●●●・クリ●●ス」
版権のため伏字である。

数年前に拝読したライブドアオフィシャルブロガーのあねこさんの記事(https://aneko-ikuji.blog.jp/archives/21771499.html)の感想にじわじわきたことを思い出したこと、幼少期に観たが断片しか記憶にないので改めて観るかというのが鑑賞に至った理由である。

まずあねこさんの感想に「なるほど」と頷き、クリスマスイヴに起きた悪夢に対する現世の対応に「大掛かりですなあ」と他人事を抱く。

自らが元凶に関わらず「ぼくの友達にひどいことをしたな」と発する主人公に思わず笑ったのはきちんと自省していたためである。

博士が求めていた存在を手にした時にある女性が解放されたこと、博士が己自身の望みにようやく気付いたことに胸を打ち、女性の冷静さと客観性にまた羨望する。

しつこいのは承知でここでもアフォリズムをまた観た。繰り返しに倦み新たなる刺激を求めることがあっても気持ちの方向と見識を誤れば取り返しのつかないことになる。一時的な欲求に従えば痛い目をみる。というものだ。

幼い頃は吹替で観ていたが、字幕で観ると何倍も楽しめているので年を取ったと感じたのであった。

「上機嫌な言葉366日/田辺聖子」
日めくりカレンダーのように拝読した。お聖さんのアフォリズム、即ち日々をユーモラスに捉えて達観するコツがここに詰められていた。

もちろんお聖さん作品を読むきっかけにもなった。

この1年を通し拝読して考察したことがある。
「笑顔でいなさい」というのは即ち上機嫌であること。それは目を三角にせず自分にも他者に期待せず、白黒つける必要なくグレーであるからこそ面白いこともあると捉え、良きも悪きが起こっても地団駄を踏まず自己憐憫に耽ることなく己を省察し他者を洞察して「まあ、こんなとこやな」「そこもあるナー」と達観することなのではないかということだ。

2022年ならびに令和4年も本著を捲っていきたい。


今年も様々な本、映画と出会えた。角田光代先生のお言葉を拝借すると「本のある世界でよかった」としみじみ思う。

2022年、令和4年もたくさんの本、映画と出会っていきたい所存である。

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