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「コロナと共にある今、どう生きればいいですか?」 恐山の禅僧 南直哉さんに伺いました(4/4)


■覚悟を決めて打開策を考え、「他人に頼る勇気」を持つ


― 死ぬということを前提に、失われるとわかって、なお大切にしたいものを見る…。誰もが、その作業をするときだということでしょうか。

全員がやらなければならないかどうかは、わかりません。
できる人は、できるだろうと思います。

万人にとって、こうすればいいということは言えないし、言っても意味がない。
みんな、それぞれに事情があり、生きている現場が違うのに、
「はい、こうするといいですよ」なんて、誰にも言えないでしょう。
それは、個々が考えるしかない。

しかし、考える大前提として、
漠然とした不安の正体を見極めることは大切です。
そして、その正体は、おそらく「希釈された死」でしょう。

そう考えてみれば、少なくとも、不安の正体は見える。

そこからどうするのかは、その次の話、これは、自分で考えるしかないと思います。
そして、そこから先は、自分自身がこの問題に触発されて、その人なりの何事かを起こしていくかどうかです。


― そうは言っても、実際には、目の前のことで精一杯という人も多いと思います。特に、仕事が無くなったり、育児や介護に追われていたりしたら、そんな余裕はないのではないでしょうか。

極端なことを言うようですが、
苦境にある人こそ、考えてもいいと思いますよ。
「自分は死ぬかもしれない」と。 そこから何を思うかです。


「いや、死ねない」と思うなら、
覚悟を決めて、苦境を打開する方策を見つけることです。
このとき大事なのは、「他人に頼ること」です。

「自己決定」だの「自己責任」だの、単純な頭の人間が言い募ってきた結果、今の時代、他人に頼るのは悪いことだと思い込んでいる人が多い。

しかし、本人に認識があろうとなかろうと、他人に一切頼らないで生きている者などいるはずがありません。少し考えれば、すぐにわかる道理です。

他人に頼ることは、本人の落ち度などではありません。
それを落ち度のように思ったり、思わせたりするのは、頼りづらくしている社会の在り方の問題だと思いますね。

「もう死んでしまおう」と思い詰める人もいるかもしれない。
そう思う無理からぬ事情もあることでしょう。
ですが、そこまで思うなら、「死んだ気になって」できることもあるのではないでしょうか。

死ぬのは今でなくてもよい。
ならば、「命がけ」で何かしてからでも遅くない。

このときも、大事なのは、何でも自分で背負い込まず、人に頼る勇気です。

いまや、頼るには勇気が要る。その勇気を出してほしいと思います。

自分で何もできないというなら、そのときは他人を頼る方法を考えるべきです。それは恥ずべきことではない。

ただ、何を考えるにしろ、焦らないことです。
自分が無力だと覚悟を決める。深く沈んでみる。

すると、他人に頼る覚悟が決まり、自分なりの頼り方が見えてくるかもしれません。

自分が何もできない事実に身を沈めながら、それでも何かやるべきだと思うことが見えてきたときに、できる行動を起こしていけばいいのではないでしょうか。
他人に頼ることも、その行動のひとつなのです。


■「末期(まつご)の眼」から世界を見たとき、新しい何かが生まれる


― なるほど、結局いま、漠然と感じている不安の正体を見定めないまま進んだとしても、同じ地平が続いていくわけですね。

まあ、生き延びることだけを考えているのであれば、
そうなるでしょう。

事が過ぎれば、何もなかったかのように、
日常も社会も続いていくのかなとも思います。

変わるにしても、新しい儲け方、程度の話なら、所詮どうでもよいことです。

死を意識して初めて、我々は、いま生きていると強烈に実感できる。
つまり、死に照らせば、「生の強度」が上がるのです。
その強度の中で、自分の在り様を根本から考えてみる。

― 私は、今回のことは、一人ひとりが自分を見つめ直し、社会の組み直しに関わっていくきっかけになるのではと思っているのですが。

だと、いいですよね。
しかし、あの震災でもそうならなかったですからね。

社会が変わる時というのは、その共同体の大半が、多かれ少なかれ当事者の意識が持てないと無理でしょうね。


― 今まさに、そういう状況なわけですね。

そう。しかしそのためには、繰り返しますが
我々が死の当事者であると、生々しく自覚できるかどうかなんです。

そう気づいた人間は、別の世界、利益や効率が無意味な世界を見るでしょう。

私は、利益や効率が不要だと言いたいわけではない。
そうではなくて、いわば「末期の眼」から見て、改めて利益や効率の意味を作り直すべきだと思うのです。

コロナ後の世界に、根本的な変化、意味のある新しさが生まれるとすれば、末期の眼が世界を見たときだろうと、私は考えています。