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わたしの望む文章はpcの前に座っていても生まれない

何、書こう。
とりあえずpcの前に座って文字打ってみるか…。

書いてみて、消して。
消しては、書いて。
やっぱり、消して。

…。…。…。…。…。…………。

何も出ない。

チーーーーン。

みたいなことはよくある。

1番楽なのは、言葉が降ってきた時にガーーーーッと書くって時。
でも、言葉が欲しい時に自動的に降ってきてくれるわけじゃない。

言葉が降ってくるには条件がある。
調べて、調べて、頭の中でまとまったら記事の1本の筋が見えた時。
頭の中のひとりごと考察モードにスイッチが入っている時。
疲労が抜けて、頭がすっきりフラットになっている時。
自転車に乗っている時。
散歩している時。

調べて、調べて、頭の中でまとまったら記事の1本の筋が見えた時。
というのはWebライターとして記事を作成している時のこと。

医療系の記事ばかり書いていた。
厚生労働省や、国立感染症研究所や、がんセンターのホームページは特によく開いた。
治療が確立されているものは、記事の内容に合わせて情報をピックアップアップして、一般の方がわかりやすく読めるようまとめる。
調べればスムーズに書けた。

しかし、新しく流行している感染症の記事などは、データや情報を収集しても不確実な情報もあったので難しかった。
そこは曖昧にせず、確定していること、不確定であることをしっかり表記してまとめた。
こういったWebライターとして書いていた記事は、情報があるので苦しんでも最後には書けた。

わたしがお話ししたいのは、そういう記事以外の、創作する文章の話だ。

わたしが文章を書きたいと思うタイミングには、感情や色彩や匂いや音、そういったものにフックがかかることが多いように思う。

だから、pcの前に座っていても何も書けないことが多い。
体験を通してでしか、文章に熱を込めることはできない。

読む人に熱を届けたい。
それがわたしの文章の根幹だ。

そこがないと書いていても面白くない。

熱がないと筆が進まない。


最近1番熱を帯びて書きたいと思ったことは、なんだろう。
ああ、そうだ、グレイヘアについてだ。

わたしは45歳になった。
白髪が増えて、白髪染めは美容院に行くたびにカットとともにオーダーするようになった。

もともと美容には無頓着な方で肌の保湿には気をつけていたけど、それくらい。
人並みに化粧や髪型を気にするくらい。最近流行りの脱毛とかも全然知識がなく、電車の中吊り広告で見るくらいで興味がなかったし、医療脱毛の記事を書く機会があって初めて世の中の関心の多さに驚いたくらいだ。

しかし、歳を重ねるとそうも言っていられなくなった。増える白髪は普通にショックだし、シミやシワもショックだった。だからシミとりクリームは買ったし、以前よりずっと紫外線や保湿にも気を使うようになった。

歳をとること自体は、さまざまな経験により精神的に強くなり、心や生活が豊かになり、若い頃よりも幸せだと思えるから、悪い事ばかりではないことはわかっていても、目に見える衰えにはうろたえた。

しかし、がむしゃらにその老いに抵抗する気はない。
老いは人間の自然な姿だから、受け入れたいとも思っている。

でも正直にいうと、老いは現段階では怖い。
それは、自分がというよりも、相手がどう思うかというところにおいてだ。

年老いて行く妻、夫は嫌だろうな。離れて行くかもしれない。
娘が20歳でわたしは59歳。その時はどんな顔に?
もう娘も自立してわたしはひとりかもしれない。
老いた自分へ向ける世間の目の冷たさはどんなものだろう。

そんなことも考えてしまう。不安だ。

だから嫌がられない程度に綺麗にはしておきたい。
でも、自分らしさを失ってまではしたくない。
もういっそ、歳を取ったら誰も相手にしないんだから、周りの目は気にしないで自分らしく生きたらいいじゃないか。
そんなことも思ったりする。
何も答えが出ないまま、老化について考える。

そんな時図書館で、ふと目にした、グレイヘアについて書かれた本。

簡単にいうと、白髪を受け入れて、白髪のまま生きていこうという本。
白髪に合う服の色や、化粧の仕方なども写真付きで書かれている。
白髪でも素敵に全身を整え美しく微笑む女性たち。
もう、白髪というよりは、銀髪。
輝いて見えた。

これだ。そう思った。
老いを受け入れても美しく輝く。
この精神性がわたしが求めているもの。

抗えないものに必死に抗って費やす時間がもったいない。
せっかく長い時間をかけて、老化と共に経た人生の経験を、誰かに伝えることもなく鏡の前でため息をつくだけの時間にしたくない。

わたしの目の前には夫や子どもがいる。
友達もいる。仕事仲間。近所の子ども。地域の子ども。世界の子ども。
未来の人たち。
笑顔の地球。

あ、発展しすぎた。

見渡せば自分ができることは、鏡の前でしゃがみ込むことではないのだ。
誰かの前で生き生きと笑う。
わたしの人生について、あなたの人生について語ること、わたしはそう思う。

話は脱線しましたが、そう、熱を帯びた話でないと人には伝わらない。

例えば、今はこの老いの経験が苦々しくとも、いつかは受け入れる時が来る。そのわたしの老いとの自問自答は経験という血肉となって、言葉となって降ってくる。

やっぱり、わたしの文章は、pcの前に座っているだけでは、何も生まれない。
今日も自分の経験を歩むとしよう。






















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