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作家のふやけた米粒(短編小説)

作家は人生の天と地を経験したほうが、より濃く鮮明で深い感動を与えることができるのか。
すなわち、苦労は買ってでもしておけ、なのか。
その問いが、炊飯ジャーのお釜に残った米を見て浮かんだ。



「ふやけたら、結構な量だったな」
炊飯ジャーのお釜の中でふやけている米を見てぼくは思った。

炊飯器の性能が悪くて、炊けたあとの保温モードで一日放置しておくと、食べきれずに少し残ったご飯は硬くなって食べれない。

だけど、カチカチになるのはほんの少しで、表層はお茶漬けにでもすれば十分食べられる。いつもは勿体無いから、かたくなったご飯もそうやって食べた。

だけど、先日の朝は気分がすぐれず、もうどうでもよくなって、食べられる部分も込みで、お釜をシンクに入れて水に浸した。

だけど、半日たってふやけた米を見て、結構な量があることに、勿体無いと罪悪感を覚えた。

そこで、ぼくは思った。
もし、今無人島で飢餓状態に陥っていたら、このふやけた米でも喜んで食べるだろうな。

飢餓状態なら、素晴らしく美味しいだろう。

と思ったが、果たしてそうだろうか。

飢餓状態で食べる、ふやけて冷たい米の味が、もしかして美味いのか、やはり不味いけど、もう、なんでもいいや、なのかは、体験してみないとわからない。

飢餓とは?ぼくは頭を傾けた。

喉が渇いたら、喉が張り付く嫌な感じや、唾を飲み込んで、喉の渇きを癒すとか、渇きを誤魔化すなどのイメージしか思いつかない。

だから飢餓を想像できても、リアルに書くことは到底無理だ。

だから、きっと体験談や文献などから情報を集めてそれらしく書きあげるだろう。

だけど、飢餓に陥るまでに変化していく、身体や心の変化、詳細にくわしく知ることができても、体験するのとは、やはり違うのだろうか。

きっとそれらしく書けば、それらしく読める。きっと、読み手それぞれがそれぞれの近い渇きや飢えの経験をもとに脳内で想像と補完し合ってくれるだろう。

それでいいのかもしれない。
他人なら。

でもぼくはそうじゃない。
ここのこのシーンだけには、真実を込めたかった。どうしても知りたい。

後悔するのは、食べておくべきだったものか?残してきた人への懺悔か?はたまた解消しておくべきだった性欲か?

極限に陥ったとき、ひとの身体はどんな風に変化して、どんなことを考えるのか。もはや考える余地もなくなるのか。

そんな時、この冷えたふやけたご飯は?

山小屋にこもって体験してみたら、悟りがひらけて、何か賞が取れるほどの作品に生まれ変わるだろうか。

ぼくは、もう何年も作家として泣かず飛ばずだった。だけど、今回の作品にはぼくの全てをかけていた。その作品のなかで、無人島で飢えと戦いながら過ごしたシーンがどうしてもうまく描けなかった。

正気とは思えなかったけど、ぼくはある決意をした。飢えを体験する決意だ。

ぼくはリュックを背負って玄関を出た。

ぼくが世の中からいなくなるか、この作品が完成できず、なくなるか。もうその二択しかないのかもしれない。でもぼくは諦めきれなかった。

乏しい望みをぼくの体験にかけたい。

じゃあ行くとするか。


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