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『暉峻淑子(てるおかいつこ)先生を囲んで 〜旧ユーゴスラビアと日本を繋いだ軌跡〜』2019.2.4 朝日新聞(夕刊)

私がアートに出会った場所。それはボスニア紛争の傷跡がのこる旧ユーゴスラビアでした。今日は皆さんとこのストーリーを分かち合いたいと思います。
2019.2.4 朝日新聞(夕刊)

『暉峻淑子(てるおかいつこ)先生を囲んで
〜旧ユーゴスラビアと日本を繋いだ軌跡〜』

先日、15年ぶりに暉峻先生との再会が叶いました。
今年90歳の先生は当時と変わらず温かな眼差しと高い志を持ち、私たちにビジョンを語って下さいました。

はじめに暉峻先生のご紹介をさせていただきます。
先生は埼玉大学名誉教授であられ、20年以上に渡り旧ユーゴ(現セルビア)への難民支援と国立ガンセンターへの薬や物資の寄贈、また日本の学生や技術者を連れて現地の方たちへ人道支援を続けてこられました。教鞭をとる傍ら、執筆にも力を注がれ長きに渡り民族紛争、経済制裁以外の協調の道を探りながら国際平和について語られ、行動にうつしてこられました。
著書に『本当の豊かさとは』『対話する社会へ』
など岩波新書から多数出版されています、
またご存知の方もおられると思いますが、
『サンタクロースってほんとにいるの?』(1982年 福音館書店より)の作者でもあられます。
2年前に出版された『対話する社会へ』は
先生が眼底出血を患いながらも命がけで書き上げられた著書です。

「戦争の反対語は平和ではなく対話です。」

という見出しの言葉の中にも、そんな先生のお人柄と強さが表れています。

そんな暉峻先生と私たちが出会ったのは
24年前の阪神淡路大震災。
 当時1枚のファックスが旧ユーゴから国際市民ネットワーク(NGO)に届いたのでした。

「日本の被災地の子どもたちへ。
私たちには支援するための充分なお金がありません。しかし、一夜で全てを失った人の悲しみは私たちが誰よりもよく知っています。モノやお金はないけれど心であなた達を慰めたい。どうぞ首都ベオグラードにお越しください。」

 実は当時、旧ユーゴではあちこちで紛争が起きていました。(1991-1995年)この紛争で傷ついた最も弱い立場の人たち(難民の子どもたちや戦争へ対する恐怖や環境の激変によって重い病気にかかった子どもたち)が次々と現セルビア国内に逃げてきている状況でした。その中には、〝劣化ウラン弾〟の投げこまれた地域から命からがら逃げてきた子どもたちも沢山いました。

この劣化ウラン弾は、ボスニア紛争が勃発する前に既にヨーロッパ各地で実験されていたという事実が様々な文献に報告されています。
※旧ユーゴの首都ベオグラードにある国立ガンセンターは、唯一子どもたちが治療に専念できる施設でした。

恐れから来る自律神経の乱れ。
白血病の発病率が急激に高くなるなど、子どもたちの身体に確実に異変が起きていました。
そしてその原因は戦争であることを誰も否定できません。

このような悲劇から子どもたちを救うため、
暉峻先生は長年にわたり薬や物資の寄贈といった支援を続けてこられました。そしてこの活動は、阪神淡路大震災が起きる前からずっと続けられてきたのでした。
その感謝の意として、旧ユーゴから日本の被災地の子どもたちへ招待状が送られてきたのでした。

震災で受けた傷を抱えたままの子どもたちが、紛争の傷跡がのこる旧ユーゴへ…
本当にそんな国へいって大丈夫なのかという懸念の声もある中、旧ユーゴの人々はこんな愛のメッセージを添えて送ってくれたのでした。

「戦争と地震は違うけど、大切なものを失った悲しみは同じです。一緒に〝心の痛み〟を分け合いましょう。」

当時9歳だった私は震災のショックから笑うこと、泣くことすら出来ない状態だったそうです。そんな私を心配した母が、わらをもすがる思いでこのプログラムに参加させたのでした。
私を含め、23人の被災児童が旧ユーゴに旅立つことになりました。
心に傷をおった子どもが心に傷をおった国へ行く…
今から思い返せば、この旅は最初から最後まで逆説に満ちた旅でした。

しかし、
歌やダンスといった現地の子どもたちとの交流。
難民キャンプへの訪問。心理ワークショップ。
旧ユーゴのサッカー観戦。ベオグラードの動物園。
明日をもしれない国立ガンセンターの子ども達との出会い。

苦難の中で一生懸命に生きる旧ユーゴの人々の温かさと強さ、またホストファミリーの愛に触れて
私たちはいつのまにか笑顔を取り戻していました。

帰国の日、

「まだ震災の傷跡がのこる復興途中の町にかえる貴方達が心配でなりません。
愛しています。私たちは離れていてもずっと友達です。あなたはかけがえのない人です。」

そう言って涙を流しながら抱きしめてくれたユーゴの人たちの愛を私は決して忘れません。

そしてこの旅は私たち23人にとって、
どんな豊かな国を訪れても得られなかったであろう特効薬になったことは言うまでもありません。

「人は傷つき、その傷が癒された時に初めて心の痛みみに寄り添い、分かち合うことができるんだ。」
というメッセージを私たちは確かに受け取り、生きる力に変えて歩んできました。

あれから24年。ユーゴを訪れた当時
子どもだった私たちは 皆大人になりました。父となり母となり、それぞれが自分らしく
〝震災を知らない世代〟にあの日の記憶を語り継いでいます。
〝失ったものばかりではない、震災があったからこそ生まれた絆〟を。
それは未来を担う子どもたちの生きる糧となるために。

みんなのお母さんでもある暉峻先生を囲み、
当時のまま時間が止まっているかのような不思議な感覚と懐かしさと心地よさに満たされた幸せな日でした。

          大人の図工塾管理人 米光智恵

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