『不適切にもほどがある!』に思う

最近、テレビドラマでもバラエティでも性の多様性やコンプライアンスなどで昭和がなんだか悪者のような扱いを受けている気がするのは私だけでしょうか。

ハラスメントなどの言葉は平成20年代とかそのあたりから盛んに使われだしてきたように感じます。

「こんなこと言ったらコンプラに引っかかる」とか「ハラスメントだよ」とか、じゃあ何も言えなくなるのと思ったりもします、だから今の20代30代の人達はそれが当たり前だから無駄にしゃべらなくなったのでしょうか。

10年以上前から職場や仕事関連でもほぼ年下としか仕事をすることはなくなりました。

でも、いまほど人間関係に嫌気がさすことはなかったです。普通に話すことも上司にチクったり他の職員を悪く言って自分がよく見られるようになんて想像もしない事態です。

いい人面しているので、全然こちらも油断していろいろと話すと大変なことになります。なぜか自分だけ会議に参加させてもらえないとか、上司は私が離席しているときに課の席に来ていろいろ話をしている様子が遠くから見えます。情報が私にはきません。つらいですが、もう3年近く耐えているのでまあ耐えられます。

これはいじめです。

でも私は特に気にしないようにしています。本来であれば、上司は課員には適切に会議やミーティングで情報を共有する責務があると思うのですが、それをしないということもあるんだと、それも私は許容しようと思います。

相手の気持ちになって、想像力を働かせて、特に配慮が必要な人々に寄り添っていきたいとかすごくいい人みたいなことを平然と言う今どきのいい人面の人々に言いたいです。
普通に隣にいる人に気遣ったりできない人に他人の配慮なんてできるのでしょうか。

私のいる職場は、自分のことしか考えない人達の集団だと思っています。
もちろん私もその類です。だからこんなにも嫌な思いをしていると思うし、きっと誰かにさせていると思います。

こんな職場と思っていても、でも働いている人は多いのではないかと思います。
お互いが相手のことを思いやって、想像力が自分のことだけでなく周りにいるひとりにでも向けられるとこんなことってなくなるのかなと思ったりします。

言いたいことを言わないこと、好きな人とだけ集まり気に入らいない人は省くこと、好きなことだけすること、
いろんな人がいれば同じ考えの人も違う考えの人もいるのに、強い人が言う正しいことに何も考えないでついていくって考えること放棄していると思います。
答えが出なくてももしかしたら正しくなくても考えることは今の世の中、とっても大切です。

考えることは大事です。

決して時間の無駄ではありません。

そこで多様性って何だろうって思います。

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