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シューベルト:君はわが憩い D776(繰り返す)

7月の終わりに担当しているアーティストがオール・シューベルト・プログラムの演奏会を行なった。晩年の、といっても31歳で短い生涯を閉じた青年の、死の淵をのぞきこむような凄みと不思議な朗らかさのある傑作に演奏会は沸いたが、主催者としては、渋めで通好みの、はっきりいえば地味で華やかさにかけるシューベルトのプログラムで集客できるのか、最後までチケットの売れ行きを心配した演奏会だった。

不思議なことに、最近、シューベルトをプログラムに取り上げる演奏会が多い。コロナの感染拡大であらゆる士気を奪われてしまった私たちにとって、不屈の精神で運命を切り開こうとするベートーヴェンの力強さより、身近な美しいものを歌うシューベルトのほうがしっくりくるということなのか。若い人も好むという。

とはいえシューベルト、「美しいけれど」「繰り返しが多くて」「絶対眠くなる」である。最近は「あのシューベルトの繰り返しは何なのか」と専門家の間で議論されるようにもなってきた。変奏しながら何度も繰り返えされるテーマ、リズムを変えて、テンポを変えて、和声を変えて、視点を変えて、時に冗長ぎみに、同じところをぐるぐる回っているように、同じ壁になんどもぶつかっているように、同じテーマが取り上げられる。

同じテーマを繰り返し取り上げることについて、「小川洋子のつくり方」に堀江敏幸氏と小川洋子氏の言葉がある。

堀江―最近、若い人たちと話をしていると、物書きが同じテーマを繰り返しはいけないように思っている人がいるんです。ところが作家の仕事というのは、同じことを繰り返しつつ、中心部を少しずつずらしていって、全体としてどれだけ辛抱強く反復に耐え得るかにかかっていて、それが大事なんですね。

小川―そうなんですよ。私も書き始めた頃は「誰も書いたことがないことを書かなければいけない」と思っていたんです。でも、書けば書くほどそこに矛盾が出てきて、「そんなことが自分にできるわけがない、なにか自分の手の中にあるものを繰り返し磨いていくしかない」ということに気づくわけです。 

「小川洋子のつくり方」(田畑書店編集部編)

もちろん、多くの人は作家でも作曲家でもないが、ここで「繰り返す」が意味しているのは、何か得意なものを磨くための反復というより、むしろ簡単には消化できない何か、どうしたらいいか途方にくれる何かに向き合ったときに、どうしたらいいかわらなないまま、辛抱強く行ったり来たりしている様を指しているように思える。そして人の核となるのは、この反復ではないかと思わずにいられない。

たまたま同じ時期に見た新聞で紹介されていた言語学者の大野普「語学と文学の間」にも、人が一生をかけて同じテーマを見つめることの切実さが記されていた。

その人が青年時代に遭遇した事件、出逢った人、そしてこれが問題だと考えたこと。それは深くその人の人生の根拠に根を張る。その問題をどこかで普遍的な形で具体化しようとする。それを自分の課題として一生背負って歩く。それが学者であると思うのです。

 大野普「語学と文学の間」岩波書店

例えば、繰り返し男女の三角関係をテーマにした夏目漱石には親友の妻への想いがあり、何の非もない妻を捨てて他の男に嫁いだ初恋の相手と再婚した本居宣長は、男女の間の出来事をモノノアワレと把握することこそ「源氏物語」の本質を把握することだと断言したとあった。

そこで、私が考えてみようと思ったのは、「シューベルトが繰り返し取り上げようとしたテーマは何か」ということではなくて、また「何か問題の解決を提示するために作品が書かれるわけではないだろう」ということでもない。

そうでなかったらよかったのにと思うのだが、問題は、開かれた道をどこまで遠く行けるかということではなくて、どうしたらいいかさっぱりわからないことの周りに人の核ができるということだ。

8月、原爆の日、御巣鷹山の慰霊登山、終戦記念日、到底受け入れられない現実を、自分の核にして生きてきた人たちが紹介される度に、その辛抱強く反復に耐えてきた姿にただただ人として最大の敬意を抱く。


7月の演奏会ではアンコールにシューベルト:君はわが憩い D776が演奏された。元はリュッケルト詩の歌曲、チェロなどの器楽でも演奏される。今回はペーター・シュライヤー(テノール)を選んでみた。


夏休みは瀬戸内国際芸術祭開催中の直島に行ってきました。
直島へは岡山の宇野港経由、新幹線の中で久しぶりに「こころ」を読みました。


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