くうねるところのくうところ

 大学入学から数か月して、鬱を発症した。

 正確には鬱ではなく別の症状で、なんやかんやあって今もそれと付き合っているのだが、それは割愛させていただく。

 引き篭もって日がな一日ベッドで泣いていたり、調子のいい時は授業に出たり、でもまたすぐ調子が悪くなって泣き暮らしたり、調子のいい時がめっきり無くなってしまったので休学したり。

 そんなカンジでぼんやりと4年を過ごし、進級する為の単位も足りなくなり、もうどうしようもないな、と思い自殺未遂を起こしたりした。そんな学生はごまんといるだろうし、そこが主題ではないのでこれも割愛させていただく。


 だいぶ昔のことになってしまったし、経年劣化したスポンジのように年々記憶がぼろぼろと崩れてしまって今ではもう学生時代のことはろくに思い出せないのだけれど、昔から食い意地は張っていたので、食べ物に関することであれば何となく思い出すことはできる。

 調子のいい時に授業に出て講義終わりに買って帰った、体育・芸術棟のパン屋の、焼き加減の当たり外れの大きいブルーベリーベーグル。

 スクーターを移動手段としていたため、シート下の荷物入れに入りきらず買い物袋から取り出しショルダーバッグに突き立てて、騎馬武者のごとき装いで町中を疾走した時の長ネギやごぼう。

 継ぎ足し継ぎ足しを繰り返していたら絶妙な酸味とにおいが生じたものの『まだイケる』とかきこんだ鍋は、つい先頃秋葉原の香福味坊で食べた発酵白菜の鍋と同じ味をしていた。

 講義のとっくに始まった頃合いに目が覚めて、もういいや、と凪いだ諦めの心地になりながら台所で卵白を泡立てて、ぼんやりゆっくりと焼き上げたメレンゲオムレツ。

 テレビを流し見しながら、レースのカーテン越しの温い日差しを浴びて、ぷわぷわとした淡い黄色の大ぶりなオムレツを食べる。人として・学生として全然ちゃんとしていないし、皿に盛りつけもせずフライパンから木べらで直に食べていて行儀も悪いし、どうにもろくでもなかったけれど、その瞬間は小春日和の日差しと同じ穏やかな心持ちでいられたのだ。


 本当にくだらないし、食い意地が張っていてみっともないな、とも思うけれど、鬱々としていたものが大半な中で穏やかに向き合える記憶は、私にとって大事なものだ。

 食い意地が張ってもいるが、食事をはじめとして、私は『生活』が好きなのかもしれない。

 生きていたくないと、生きるのが苦しいと思うことは今でも多々ある。毎日のようにある。それでも、こういうささやかな『生活』に想いを馳せると、ほんの少しだけ息をするのが楽になる気がするのだ。

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