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不妊治療中に子どもの名前を決めた話【後編】

わたしの息子が生まれるまでの話(不妊治療体験)の後編です。
ぜひ前編からお読みください。

2度連続の稽留流産を経験し、心が真っ黒になってしまったわたし。

2022年5月、不妊治療を休止した。

不妊治療において休止期間というのは、一般的にもったいないことだ。
女性が歳をとると、妊娠力が下がる、流産率は上がる、卵が染色体異常を持つ可能性が増えるので子どもがなんらかの障害を持って生まれる可能性も増える、そういうリスクがあるので、35歳以降の出産は「高齢出産」といった嫌な呼び方をされる。

さらに私の場合は、残りの凍結胚の数ぶんだけ数万円の保管料がかかる。そもそも培養士による徹底した管理がないと、卵を持ったまま「休止」なんてできないのだ。

とにかく「元気な子どもを産みたいなら、なるべく早く」が生殖医療の基本中の基本。
それでも、わたしはゴールの見えないこの理不尽なレースから抜けたくて治療を休止した。

休んでいた間、運が悪いことに職場の同僚や友達、お気に入りのYouTuberまでからも「妊娠報告」が続々と続いたせいで、ますますふさぎこむモードになった。

この頃、考えていたこと。

  • これから続く人生が辛くて、苦しいことばかりなら、もう消えてしまいたい。

  • どうして流産が続いてしまうのか。(当時はこれからの移植すべてが流産になってしまうという思い込みがあった。)原因が知りたい。原因を突き止めて対策してからじゃないと、丸腰での移植は恐ろしすぎる。

  • 周りの「妊娠→出産」はなんのハードルもないように見える。少なくてもわたしのようにここまでお金も時間もかけたという人はいない。流産が続いた人もいない。わたしと周りとの差は一体なんなのか。

  • なぜわたしは子どもがほしいのか。本当にここまでお金と時間を使って、体を痛めてまでほしいのか。

人による些細な言動でとんでもなく傷ついてしまうせいで、人と関わることが怖くて仕方なかった。
仕事は完全在宅&時短勤務に切り替えた。このおかげで職場での子どもの話題から(物理的にも精神的にも)距離を置くことができて、作り笑顔をする必要も、噂話を耳に入れることもなくなり精神的にとても楽になれた。

さらに、自分の時間が増えたので好きなことをして過ごすことができた。
無心でできる英語の勉強、編み物、ドローイング、映画鑑賞の趣味に助けられた。嫌なことすべてを忘れて自分ひとりの時間を生きている実感があった。
こんな風に、好きなことを自由気ままにできるのなら、子どもを持たない人生も幸せかも、と考えられるようにもなった。

おばあちゃんのお葬式

休止期間中に、旦那のおばあちゃんが亡くなった。
わたしたち夫婦に子どもが出来ないことを気遣い、話題にしないようにしてくれていた義家族の中でも、「赤ちゃんを抱っこしたい」と正直に言ってくれる唯一の人だった。

おばあちゃんのお葬式に参列しながら、胸の中で何度も謝った。
流産がなくスムーズに妊娠出産できていたら、生まれてきた赤ちゃんを抱っこさせてあげることができたのかもしれなかった。ごめんね。

そして、大人になってひさしぶりに参列するお葬式は、不謹慎だけど新鮮な体験だった。

棺を覗いては、ハンカチを口に押し当てる親族を見て「人が死ぬ」というのはこういうことなんだ、と改めてわかった。

わたしが失った2つの卵も命だった。わたしの卵巣からきちんと摘出され、体外受精に成功し、順調に細胞分裂をしながら、最終的な胚となり、凍結も融解も成功した。人から羨ましがられるほどの高グレードな見た目の良い胚だった。
人によっては高いハードルである、移植後の着床にも成功した。わたしの子宮内膜はやってきた卵をちゃんと迎え入れる能力があるという証明だ。着床した卵は胎嚢という袋になり、その中にクリオネみたいな小さな胎芽も見えていた。

だけど死んでしまった。なんで?
この経験に一体なんの意味があるの?

仏教のことば「因縁生起(いんねんしょうき)」

親族だけが集まった小さなお葬式の中で、お坊さんがお話してくれた時間があった。
おばあちゃんがこの世を旅立ったこと、それをわたしたち家族はどう受け止めたらいいのか、という内容だった。
いつもならなんとなく聞き流していたと思う。だけどその時のわたしは「死生観」に強い興味があり、気づいたら前のめりで聞いていた。なんとか流産した事実に折り合いをつけようと必死だった。

お坊さんは言った。
「おばあちゃんは縁をもってこの世に生まれ、縁を尽くして旅立たれました」

そして、忘れられない言葉と出会った。
「因縁生起(いんねんしょうき)」という仏教の考え方だ。

この世に存在する物事は、すべて因と縁によって成立しているので因縁生起とも言います。人間の存在や自然界など、すべて因縁によって一時的に結ばれ、また解けていきます。
何一つ固定的な存在は無く、生滅を繰り返し変化を続けるというのが、仏教の根本的な思想です。

「日蓮宗 いのちに合掌」
https://www.nichiren.or.jp/glossary/id313/

因縁を因と縁に分けた場合、
「因」は原因ということで、直接的な原因です。
「縁」は助縁ということで、間接的な要因で、因が結果になるのを助けるものです。

例えば米を結果とすれば、それを生じる因はモミダネです。
ですが、モミダネを机の上に置いておいたり、北極の氷の上に置いておいても、米にはなりません。
モミダネが米になるのを助ける、土や水、空気や温度や栄養など、さまざまなものが必要です。

(中略)

このように、結果は、因だけでも起きませんし、縁だけでも起きません。
因と縁がそろってはじめて結果が現れます。

日本仏教学院 仏教ウェブ入門講座
https://true-buddhism.com/teachings/innen/


「因」は原因、
「縁」は間接的な要因で、因が結果になるのを助けるもの。

米を結果としたとき、もみ種は「因(原因)」、太陽の光、水分、土の状態などあらゆる条件が「縁」となる

それを聞いて、しっくりと腹落ちした感覚があった。

不妊治療において、質の良い卵ばかりをこだわっていたけど、それはただの「因」(原因)に過ぎなかった。
結果(妊娠、出産)を得るためには「縁」という間接的な力が必要だったんだ・・・!

なんで不妊治療をしないと妊娠できないのか、なんで妊娠しても流産になってしまうのか、ずっと考えてきたけどわからなかった。
でも、わかるわけない。だって「縁」だったから。それはわたしひとりがジタバタしても泣いてもわめいても抗えない、自然界の巨大なパワーだ。

それがわかった途端、気持ちがふっと軽くなった。
因や縁など理解したら、ちっぽけなわたしにできることなんてないと思ったからだ。

もしも、次の移植で無事に出産までたどり着いたら、それははっきりと「縁」があったと言える。
生まれてきた子どもには、奇跡のような「縁」がいくつも繋がった結果、この世に生まれることができたと感じてほしい。
そして、どんな出来事も、人との出会いもすべて「縁」があると受け入れ、大切にしてほしい。

わたしの中で、まだ生まれてもいない子どもへの願いが次から次へと込み上げてきた。

今なら、子どもを授からない未来になったとしても、本当の意味で「縁がなかった」と完全に受け入れられる気がした。ひとつの答えが出た未来もそれなりに幸せなはずだと信じることができた。

おばあちゃんのお葬式で「因縁生起」のことばと出会い、不妊治療への向き合い方が変わった。これはおばあちゃんからの最後のプレゼントだと思い、今でも感謝している。

3度目の移植、妊娠、出生前診断

恐怖から足がすくんで踏み出せなかった次の移植。
本当に怖いなら、ここで辞めたっていい。家族は誰も反対しない。すべて自分次第だ。

だけど、不妊治療という挑戦に答えを出さないまま終わることは、未来のわたしが「あの時、移植していたらどうなっていた?」と後悔しながら生きることになるのではないか。それはわたしにとって、流産することと同じくらい怖いことではないか。

凍結している卵はあとふたつ。
わたしにできることは、その卵ひとつひとつに「答え」を出すことだ。
まるで人生ゲームのサイコロを振るかのように、淡々と。
どんな「答え」が出るかは誰にもわからない。それは縁が繋いてくれるものだから。

2023年2月、約9ヶ月の休止期間を経て3回目の移植をした。そして妊娠した。

妊娠判定が出ても、内心は不安でいっぱいだった。またあの絶望の闇に堕とされるのでは、といつも考えていた。流産になるのなら、いっそ妊娠なんてしないでほしいとも思った。

胎嚢が映るエコー写真を見て旦那が言った。「これまでの胎嚢の中でいちばん大きいね。」
旦那がこれまでの胎嚢の大きさを覚えているとは思わなかったので驚いた。
不安でいっぱいで藁をも掴みたい気持ちなのは、わたしだけじゃなく家族も同じだった。

妊娠7週、トクトクトク・・・と動く心拍がモニターに映った。初めて見る「生きている証拠」だった。涙が出るほど嬉しかったけど、先生はわたしに期待をさせないように冷静に振る舞った。

妊娠9週まで到達したころ、母子手帳が交付された。区役所でそれを受け取り、職員に体を労る言葉をもらうのは幸せなはずだけど、わたしは一般的な妊婦とは程遠かった。

妊娠10週、不妊治療のために通っていた病院を卒業した。
その際、血液検査だけでお腹の赤ちゃんの染色体異常を調べることができる「NIPT」という種類の出生前診断を任意で受けることができると紹介された。

夫婦で悩みに悩んだ結果、わたしは出生前診断の中でも一番高度な「羊水検査」をすることに決めた。(ここに至る経緯や葛藤も盛りだくさんなので別の記事にまとめる予定。)

妊娠15週、少し膨らんだお腹に細い針を刺して羊水を抜き取った。神や仏、ご先祖様みんなに祈りながら検査結果を待った。その結果を知るまではわたしの妊婦生活は始まらないような思いだった。

2週間後、検査をした先生が「問題なかったです」と結果を告げた。渡された紙にも「染色体の数的・構造的異常は見つかりませんでした。」とだけ記されていた。
あまりにもシンプルな結果報告だったので肩透かしを感じながらも、わたしがずっと待ち望んだ「卵に染色体の異常はない」という証明は、嬉しくて心から安堵できるものだった。

羊水検査で問題がなかったという事実によって、わたしの妊婦生活が少し安心感のあるものに変わった。
辛すぎるつわりで寝込んでいる時期もその安心感に支えられ、なんとか前向きでいられた。
そして少しづつ変化していく体と一緒に「もしかしたら赤ちゃんは本当に生まれてくるかもしれない」と思えるようになった。

2023年10月、赤ちゃんは無事に生まれてくれた。子宮内膜症を持つわたしは予定帝王切開だった。

率直な感想を言うなら、「本当に赤ちゃんがお腹の中にいたんだ」。
愛おしいとか嬉しいとかそんな感情は二の次で、驚きの方が大きかった。
わたしと血や栄養を分け合いながら、3200gにまで成長した人間がお腹の中に入っていたとは。体外受精は自然妊娠と違い、卵子と精子が受精する過程からずっと見てきたはずなのに・・・当たり前の事実に驚かされるほど、妊娠出産は神秘な体験そのものだった。

保育器に入った息子を眺めながら、自分の子ではないような気がして「どこから来たの?」と思ったけど、垂れた目や白い肌は、確かにわたしに似ていた。

生まれてきた子どもへ

この記事を書いている頃、息子は8ヶ月になった。元気に成長して、今日も家族を幸せを感じさせてくれている。

名前は「縁(えん)」と名付けた。
これまで、家族や病院の先生、看護師さん、保育士さんから「えんくん」とたくさん呼ばれてきたおかげて、彼にもわたしにも、その名前がしっくり馴染んできている。

子どもが生まれてしばらくして、自分で命名書を制作した。
これまでの不妊治療や流産、自分自身の心の移り変わりを表現したモチーフを組み合わせて漢字にしてみた。
これは我が家にだけ、子どもがいつでも見られる場所に飾っている。

制作した命名書(情報は架空のもの)

今はわたしにしかわからないイラストだけど、息子が大きくなったら、名前の由来とともに、不妊治療や体外受精のことも隠すことなく堂々と伝えたい。

わたしが体験したように、息子もきっと人生に絶望する時が来る。
人を傷つけ、傷つけられる中で、人間関係に悩むことも必ずある。
どうして生まれてきたんだろう、と考えるかもしれない。この人生にどんな意味があるのか、と。

そんな時、「縁」の由来を思い出してほしい。
あなたはパパとママがいるだけで生まれることができた命ではない。
2年間の不妊治療の中で、多くの人や時間、高度な医療、その恩恵を得られる時代背景、家族の汗と涙と勇気によって、細く長く繋がった縁の「結晶」だ。

どうかそれらに感謝して、日々を大切に生きてほしい。
なにかにつまずいても、原因ばかりを追求するのではなく、そこへ導かれた縁を感じられると、心がふっと軽くなるかもしれない。

名前は親から子への最初のギフトだ。
受け取られた名前はお守りのように、息子のいちばん近くで人生を見守り、支えになってくれますように。

息子の縁(生後7ヶ月)

前後編の長い記事になりましたが、ここまで読んでくださりありがとうございました。

今回は不妊治療についての話がメインになり、あえてネガティブなことも書きました。
妊活や不妊治療を頑張っている人に、ここまで闇落ちしたわたしでも不妊治療を通して多くの学びや経験を得たことを伝えたかったからです。

不妊治療のゴールは「子どもを授かる」ことではないです。納得して治療を終えられることだと思います。
わたしは不妊治療を通して、「子どもがいる・いない」に囚われず、「自分の」人生を幸せに生きることこそが素晴らしいことだと辿り着きました。

そんなメッセージが伝わる発信を、今後このマガジンでもしていきたいと思います。

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