国語教科書_

齋藤孝先生は、なぜ小学1年生向けに理想の国語教科書をつくったのか。

「国家百年の計は国語力の向上にある」と断言する齋藤孝先生。明治の日本がいち早く近代国家の仲間入りをした背景にも、高い国語力がありました。ところが、現在の小学校一年生の国語教科書は子供に与えるべき十分な内容になっていないといいます。それを憂慮して、2019年に刊行された“理想の国語教科書”『齋藤孝のこくご国語教科書 小学1年生』に込めた思い、現在の国語教育の危機的状況と国語力養成の重要性についてお話しいただいきました。

国語が人生の基礎をつくる


国の土台をつくるもの、それは思考力だと思います。そして思考力の土台になるのが母語、日本人であれば日本語です。母語で思考することをしっかり認識するところからすべてが始まるのです。

その意味で、思考力とは言語の運用能力ということもできます。そして思考力を育み、母語の運用能力を高める教科である国語は、他のすべての教科の基礎になるだけでなく、人生の基礎になるといってもいいでしょう。

考える力は、訓練によって養われるものです。言葉を一つ覚えることは、新しい概念や視点を一つ獲得するということです。一つの言葉が、一つの新しい考え方との出合いをもたらしてくれるのです。

その時に重要になるのが語彙力です。語彙力を高め、その上で意味と意味を繋いで文章の関係性を見抜く力=文脈力を身につけていくと、他人の思考も理解できるようになります。すると自分の考えを深めるだけではなくて、人とコミュニケーションをとって新しい考えを生み出していく、つまり協調性を持ちながら自分の考えを言葉にして新しい提案ができるようになるのです。国家百年の計を考える時、これは次の百年を支えていく人間にとって欠かせない資質になると思います。

このような高い意識は言語能力と不可分です。ただ器用に話せればいいわけではなく、しっかりとした文章を読んで、そこに表れた精神の力を受け取ることも大切なのです。そして、その人の精神を継承するには、書かれたものを読むことが一番です。例えば、武士の心得が綴られた『葉隠』という本があります。武士社会で生きていれば、その精神は自然に共有されますが、現代の私たちにはうまくイメージできません。しかし『葉隠』を読むと、当時の武士が何を考え、何を大切にしていたかがはっきりと伝わってきます。

そうした精神性を身につけるために江戸時代に行われていたのが素読です。素読は意味を理解するというより、何度も音読して言葉を体に刻み込む学習法です。精神性の高い文章を素読によって自分の内側にしっかり入れると、それが力に変わるのです。その素読のテキストとなったのが、当時でいえば『金言童子教』や『論語』でした。そして、いまならば国語教科書がその役割を果たさなくてはならないと思うのです。

絶対量が足りない一年生の教科書

そうした観点から現在の小学校一年生の国語教科書を見ると、力強さが足りません。絵や写真を見て考えることを促す対話的な授業に役立つ形式にはなっていますが、何しろ活字が少ないので思考が簡素にならざるを得ないのです。

国語という教科は、まず子供たちに言葉をプレゼントするものなのに、一年生で学ぶ漢字が少なすぎます。六年間積み重ねても、江戸時代の子供たちの国語力には到底及びません。これはおかしな話です。時代が進めば言語能力も高くなるべきなのに、明らかに低下しているのです。

その差は江戸時代に教育を受けて明治時代を過ごした人たちの残した文章を読めば分かるでしょう。非常にレベルの高い文章で書かれています。漢語が多いだけでなく、思考がしっかりしていて、言いたいことも明確に伝わってきます。また語彙も豊富です。

昔の日本人はそういう言語能力を持っていたのです。いまSNSで交わされている言語のレベルが必ずしも低いわけではありません。軽やかにやり取りするセンスはいいと思いますが、語彙の絶対量が欠けているため、同じような言葉を使ってしまう。語彙力に限界があるのです。

こうなってしまった背景にあるのが、「話す、聞く」教育の重視です。ある時期に日本の国語教育は「話す、聞く」ことを教育の大きな柱として設定しました。それ自体はコミュニケーション重視の現代においておかしなことではないのですが、実際には語彙が不十分であるため、知的レベルの高い対話とはならず、なんとなく話し、聞く練習をするという形になってしまいました。

私はかつて文部科学省の教科書を改善する委員になった時に、小学校の国語教科書はもっと厚くていいし、活字も多くていいのではないかと提案をし、議論をしたことがあります。母語が重要なことは明らかで、外国語を学ぶ時にも母語の限界が第二言語の限界になるのです。最近、同時通訳の機械がいろいろと出てきています。そこで変換されるのは「意味」です。

言葉の意味さえしっかりしていれば、何語でも他の言語に訳すことができるのです。意味を読み取り、意味を伝える。この当たり前の作業は語彙力によって支えられています。相手が語彙の豊富な言語を持ち、こちらの語彙が少なければ、大雑把な意味しか受け取れないし、伝えられないのです。

その点で日本がうまくいったのは、明治維新の際に言語を増やしたからです。societyという言葉に当たる日本語がなかったので、それを「社交」や「社会」と訳しました。rightは「権利」「自由」「通義」と訳していました。西洋の言葉を翻訳することによって新しい日本語を生み出したのです。明治維新は新たな言葉を生み出す絶好の機会となり、そこで日本語が大きく膨らみ、成長したのです。

それらの言葉を通して日本人は西洋のものの考え方を身につけました。これなくして憲法や法律は成り立ちませんでした。私たちがいま法治国家で暮らせているのも、西洋の言葉を日本語にして身につけ、学習してきたからです。

国語と人間性の成長

国語のもう一つ重要な点は精神の涵養に関わっていることです。江戸時代の寺子屋は素読によって人間性を高めるという側面が非常に大きかったのですが、国語という教科もまた、ものの考え方や人格の成熟を担います。

単純な言葉のトレーニングではなく、文学を趣味として読むのでもない。人間性と言葉をセットにして成長させていくことを促してきたのです。国語のテキストに採録されるような文章は非常に深みのある多義的な内容を含んだものが多いので、議論していくとより深さが増していきます。それゆえ知的な対話を喚起する素材になるのです。

国語は人間性の成長とは無関係であり、日本語という言語を教えればいいのだと考える方もおられますが、教科書が人間の精神性と切り離して言葉だけを教えるドリルのようなものであるとしたら、あまりにも物足りないと言わざるを得ません。むしろ人間性を養うという重要な役割を担ってきたと考えるからこそ、国語が重要なのだと言えると思うのです。

人間性を養うという点では道徳という教科もあります。しかし、道徳は国語ほど時間数が多くないし、教える内容もあまりはっきりとしていません。道徳に限定して人間性を養うというのも狭い感じがします。その点、国語はいろいろな文章からいろいろな意味を受け取ることができます。クラス全員で話し合って意味を見出していくという作業を行えば、対話もでき、思考の深化も期待できます。

ここで大事なのは、テキストです。友達とやり取りしたおしゃべりのメールと夏目漱石の講演とでは、当然それを巡る議論の深さが違ってきます。誰の書いた文章でも同等の価値があるわけではありません。やはり書き手によるのです。文章に込められた人格の深み、教養の深さ、広さを感じさせる書き手は日本に数多くいますし、また日本語に翻訳された優れた外国の作品もたくさんあります。それらをテキストにして日本語を充実させ、人格を成熟させる役割が国語にはあるのです。

ところが近年、その内容がどんどん薄くなってきています。これは時代に逆行しているといえます。情報が溢れた時代だからこそ、語彙力を高め、文脈力を身につけて、精神の成熟に繋がるようなテキストを読まなくてはいけないのです。それが現在なすべき教育改革の根本だと思います。

子供に質の高い日本語を

月に一冊も本を読まない大学生の割合が五十%を超えたという調査がありました。そんな知的向上心に欠ける国民に未来があるのかと疑念が湧き上がります。本を読むことは知的向上心の表れであり、向上心を高めるステップなのです。本を読むと、もっと知りたい、分かりたいという好奇心が高まります。それが新たな読書活動と連動していきます。

本を読まない人が増えているというのは、難しい本を読むだけの国語力が身についていないからでしょう。小学校のうちはみんな割と読書をしますが、中学以降に読まなくなる。小学生が読むような物語は少ない語彙でも対応できますが、大人の本になると語彙が急に増えて、扱う対象も多様になってくるためです。その時に知的好奇心を持って立ち向かえるかどうかなのですが、それができないというのは、小学校の国語教育が低下している証拠です。

特に小学校の一年から三年までは新しいものに出合う重要な時期です。その時にレベルの高い国語に出合うことが大事なのです。大人の国語がどんなものかを知り、それをこれから学んでいくのだという覚悟を決めてもらう。寺子屋では知識もないのに返り点を打った漢文を読んでいました。でも、子供はそれを負担に感じませんでした。意欲に溢れて、難しいものにも積極的に取り組んでいきました。そうした能力は現代の子供も持っているはずです。

高度な情報化社会に生きているいまの小学校一年生の知的水準は、昭和三十~四十年代の子供に比べると、ずいぶん高いと思います。iPadやスマホなども簡単に操作します。それだけの知能を持っているのですが、学校でそれが大きく育つような栄養が与えられていないのです。

土台づくりは重要です。例えば砂場で山をつくる時に、土台を小さくしてしまうと小さな山しかできませんが、土台を広く大きくすれば、その分、大きな山がつくれます。本来、その広く大きな土台をつくるのが、小学校一年の国語教科書です。それが十分でないというのが問題なのです。

小学校の子供は意欲に溢れています。中学以降は、小学生特有の素直さが若干薄れてきて、勉強する子、しない子に分かれてきます。ですから、みんなが向学心を持って取り組みやすい小学校の間に、より高いレベルの言語能力、母語能力、日本語能力を育成することが国家の土台づくりにも繋がるのです。

また国を動かす以前に、一人ひとりが自分の心をちゃんと制御する自制心を養い、自分のやりたいことが分かる広い意味での思考力を持たないと、大人になって苦しむことになります。自分が何をやりたいのかを感じ取り、そのために社会の中でどういう道筋を辿ればいいのかを調べて考える力というのは、すべて言語を使ってやることです。言葉が少ないと感情も雑駁になり、得られる情報も少なくなって、情報弱者になってしまうのです。そういう状態に子供を置いてはいけません。

私が知り合った韓国人留学生で非常に日本語がうまい学生がいました。「どうやって勉強したの?」と聞くと「山岡荘八の『徳川家康』を全巻読みました」と答えました。それくらいの能力だから、文章も完璧な日本語で書きますし、大変知的な会話ができます。日本語が母語ではない人間でも、高いレベルの読書をすると、日本人顔負けの言語活動ができるようになるということです。そういう人は頭がしっかり働いているので、仕事もしっかりできます。

逆に、語彙の能力が低くて本を読む力が身についていない人は苦労します。英語の能力が低い人が英語の本を読むのが苦しいのと同じです。本来、母語であるならば空気を吸うように読めるはずですが、語彙力が低いとそれも簡単ではなくなってしまうのです。

知的な興奮とともに国語能力向上の訓練をするためには、優れたテキストを子供に与えなくてはなりません。それが現実の国語教科書では難しくなっているところに大きな問題があります。実際にご覧になると分かると思いますが、いまの国語教科書は「これで日本が支えられると本気で思いますか?」というレベルです。各学年に分けられた様々な設定があり、それが子供たちに迎合するような形でだんだん緩くなってきていて歯止めがきかない状態です。この相対的な地盤沈下を止めるのはなかなか難しいことです。

そこで私はこの度、まず家庭の中で親が責任を持って子供に必要な国語力をつけてもらいたいと考え、『齋藤孝のこくご国語教科書 小学1年生』というテキストをつくりました。これは現行の国語教科書の不足を補い、子供たちの国語力の土台を大きくすることを目指したものです。親子で読めば自ずと言葉と精神が一体となった形で子供の心を深く耕してくれるような内容になっています。

ただし、これを使いこなすには親の覚悟が必要です。かつての寺子屋で子供たちが読んでいた『金言童子教』や『論語』は素材として素晴らしいものでした。それをただ子供に与えるのではなく、大人が覚悟を持って教えていました。この覚悟を決めて教えるということが非常に大切です。

私たちは次の百年をしっかりとした形で迎えないといけません。いま日本の人口比率は高齢者が多くて下が少ない歪な形をしています。人類史上初の少子高齢化社会に日本はどう対処していくのか、世界が注目しています。

この極端な少子高齢化の中で次の世代を育てていくためには、なんとしても一人ひとりにしっかりとした思考力と新しいものを生み出すだけの対話力を身につけさせなくてはいけません。そういう覚悟を共有して、子供たちに質の高い国語を与えていくことは大人の責務です。

『齋藤孝のこくご国語教科書 小学1年生』の中には、私自身の日本の将来にかける思いも込めました。それをぜひ汲み取っていただき、覚悟を持って子供に与え、一緒に読み語り合って、日本の未来を担う立派な子を育てていただきたいと思います。

『齋藤孝のこくご国語教科書 小学1年生』には、こんな内容が収録されています

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『齋藤孝のこくご教科書 小学1年生』の巻頭にある「学問のすすめ」を音読する、幼稚園年長のあんじゅ君。はじめは4分以上かかっていた音読が、数日後、なんと1分台に!