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クレームの電話の吉と凶とを分けるもの――東洋古典『易経』に学ぶ

東洋古典最古の書物といわれ、四書五経の一つにも数えられる『易経』。時代や環境が変化していく中で起こる、あらゆる出来事の解決策になる知恵が記され、孔子や孫子をはじめ、多くのリーダーたちがバイブルとしてきました。

帝王学の書ともいわれる『易経』を、約半世紀にわたり学び続けてきた竹村亞希子先生は、易経研究家として難解な教えをわかりやすく現代に蘇らせてきました。定期的に開催される易経講座には、毎回満席でキャンセル待ちが出るほどの人気ぶり。これまでに約40年、10万人以上に『易経』の教えを説き続けています。7月初旬に致知出版社から発売となる最新刊『経営に生かす易経』にはどのような内容が掲載されているのか。その一部をご紹介します。

後悔して改めると「吉」に向かう

企業活動にたとえてみれば、一本のクレームの電話があったとすると、これは一つの兆しなのです。その後の三、四回までのクレームの電話は吉でもなく凶でもありません。この段階ではまだ吉か凶かはわからず、易経にはそれは「小疵(しょうし)」と書かれていて、小さな傷にすぎないというのです。

吉と凶を分けるのはクレームの電話があった際の、企業の姿勢、すなわち「悔か吝か」で決まるのです。たとえば、材料の牛乳や卵の残り物を捨てるのはもったいないからといって、三日間ぐらい賞味期限を延ばし、その分の経費を節約して儲けようとする食品会社があったとします。

そこに消費者から腹をこわしたというクレームの電話が来た時には、その原因はすでに企業側は知っていることで、これが公になったらクレームどころではなくスキャンダルになります。そのスキャンダルによって社会問題となり、企業倫理や企業体質が問われて老舗でさえも潰れてしまうかもしれません。

クレームもなく儲かっている間は不正をなかなか止めることができません。しかし観る力のある人は、数本のクレーム電話が来た時に原因に思い当たり、ゾッとして身体も心も震えます。しかし観る力のない人は「腹をこわしたといっても、死ぬわけではないのだから」と軽い判断をして、クレーム処理ばかりを指示するだけになってしまいます。

その兆しを観る力のある人は、クレームという天の声が恐ろしくなり、怯えて後悔します。それを易経では「悔(かい)」といいます。やってはいけないことをやってしまったという後悔は、このままでは会社が崩壊しかねないので、今までのやり方を改めようとすぐにシステムを変えるように動きます。

後悔して改めると「吉」に向かいます。しかしすぐに「吉」という結果が得られないところに難しさがあります。これまで不正で経費を節約していたものを改めるのですから、あらたな経費がかかってしまうし、新しくシステムを導入しようとすればその分の投資が必要になります。また社員の教育が必要ですし、その他にもいろいろと手を打たなければなりません。要するにお金がかかることが多いし、手間暇がかかります。すると今までの利益が減ってしまうことになるので、しばらくは吉に転じているとは見えにくい期間が続きます。実はこれが膿出しの期間です。

今までの膿を全部出し切ると、「窮まれば変ず」となって企業の地道な努力が実り、変化し始めるのです。それが底力となり、「あの会社はよくなった」とか「味もサービスもよくなった」という声が聞かれるようになります。ゆるぎない信用を、従来よりも得ることになっていきます。

自動車でも時々リコール問題があります。リコールにはお金がかかりますが、それを惜しんで隠蔽してしまうと、後々に大きな問題となって取り返しがつかないことにもなります。しかし誠実にリコールをすれば、もっと大きな信用が回復することになるでしょう。とことん膿を出し切ると「窮まれば変ず」となり、ここから吉になっていきます。

クレームは天からのラブコール


さて、反対に凶の世界は「吝(りん)」によってもたらされます。「吝」は「吝嗇(りんしょく)」という言葉があるように「ケチ」「惜しむ」という意味です。簡単にいうと、後悔することをケチることです。問題が起こってもこれを改めるのを惜しんでしまうのは、観る力がないし、なんとかなると自分を騙すのです。目の前の儲けがなくなるのを惜しんで、クレーム処理をするだけで済まそうとすれば、不正を隠蔽することになります。

大自然はとても親切なので、何度も合図のごとく兆しが告げ知らされます。合図や信号の意味でクレームが来たり、軽い事故が起きたり、何度も兆しとしての現象が起こります。いち早くその兆しを察知することで問題を回避できるのですが、見逃していると一気に急激な変化に見舞われ大きな問題に発展していきます。

吉と凶の境目は、後悔してすぐに改めるか、または吝により改めることをケチるかにあります。観る力のある人は、兆しとしてのクレームや小さな出来事を察知すると、大自然が教えてくれる天地の法則から外れていたことに恐れおののき、すぐに改めることができます。

クレームや小さな傷や出来事は、鈍かった自分に対して天からのラブコールが発せられたようなものです。したがって観る力のある人からすると、お客様からのクレームこそはラブレターともいえるでしょう。

すぐに後悔して改めると、しばらくはマスコミに叩かれたり、騒がれたりして、まるで凶の世界にあるかのように見えますが、結果的に時間が経って、窮まれば吉に変じていきます。しかしクレーム処理をしながら改めることなくそのままにしておくと、しばらくの間は逆に儲かり続けます。これは一見、吉のように見えていますが、やがて窮まれば変じて、突然に問題が表面化して凶になると易経に書かれています。

私たちは時に、より良い環境に恵まれ、条件が揃った時に、まるで神様か天使ででもあるかのような本当に素晴らしいことを成し遂げることができます。しかし私たち人間は困ったことに、正しいと知って、正しいことをするとは限りません。悪い環境や条件が揃うと、これが人間なのかというくらいひどいことをしてしまいがちです。

私たち人間が、時と場合によって善いことも悪いことも行ってしまう存在であることを認めることなしに、易経を読むことはできません。日が当たって素晴らしい「陽」だけではなく、暗く哀しく辛い「陰」を同時に見据えること、そういう心構えができて初めて、易経の智慧を得ることができるのです。

誰でも明るく元気で笑顔でいられるのがよいと思います。しかし一転して、何か条件が突きつけられていて、とても苦しい状況に見舞われる時、誰もがとてつもなくひどいことをしてしまうかもしれません。

だからこそ易経は、時の変化の法則と、時中を知ることによって、冬の時代にあっても悪事をはたらかず、むしろ冬の時をよりよく生かすようにと教えているのです(『経営に生かす易経』より)


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