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桃のにおい

私のこころ傷んでいるところつうっと流るる桃畠の雨

齋藤芳生『花の渦』

 この歌をつくってからちょうど1年になる(註:2018年8月)。
 昨年は今年の猛暑など想像もできないほどの冷夏だった。最近は友人たちと「去年と今年を足して二で割るぐらいがちょうどいいのにねえ」と冗談めかして話してはよく笑っているが、あの冷夏はなんだかもう遠い昔のことのような気がする。

 冷夏でも猛暑でも、福島市で生まれ育った一人として毎年夏を過ごすために欠かすことのできないのは、桃である。猛暑の影響で今年は全体的にやや小ぶりだと聞いたが、やはり今年もおいしい。あのまるい形、あたたかみのある色、触れたときのあたたかみのある手触り、そして香り。これから出回る梨や林檎ももちろん大好きだけれど、桃という果物にはなにか魔法のように、そこにあるだけで人を幸せな気もちにする何かがある。

 3年間のアラブ首長国連邦での仕事を終えて帰国したのは8年前の夏。飛行機の中で、日本に着いたら食べたいもの、というのをいろいろリストアップしていたのだが、その筆頭に挙げていたのが桃だった。産油国のショッピングモールはおそろしいほどに広くて品数が豊富だが、日本の美しくて甘い桃はそうそう手に入らない。東日本大震災直後からは仕事のために東京で暮らし始めた。あの年のの夏、実家から送られてきた大ぶりの桃を箱から取り出した時には思わず泣きそうになったし、泣きそうになりながら、ああ、福島はきっと大丈夫だ、だから私も大丈夫だ、と思った。

 その後再び福島市に帰り、第二歌集の『湖水の南』を上梓したのも4年前の夏である。歌集を謹呈した方の一人が、大変に立派な桃をひと箱送ってくださった。桃は箱を開ける前からよいにおいがする。箱を開けて、見事に並んだ桃に思わず感嘆のため息をついた。福島に帰ってきたことも、福島をテーマにした歌集を出したことも、間違っていなかった。そう強く確信したのは、その時である。そして、これからもっと、この福島という土地に深く入り込んで歌ってみようと決心したのだった。

 いろいろな夏がある。時に苦しかったり辛かったりもするけれど、それぞれの夏の暑さのなかで私たちに寄り添うように甘く実った桃が、私は大好きだ。

福島民友新聞「みんゆう随想」2018年8月28日

☆今年も毎日食べてます、桃。桃のにおいってストレス解消効果もあるそうですよ。

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