【幸せの作り方】Day 1・所属する
人間はね、急行列車で走りまわっているけれど、何を探しているのか自分でもわかっていない。
完璧がついに達成されるのは、何も加えるものがなくなった時ではなく、何も削るものがなくなった時である。
人間は充実を求めているのであって、幸福を求めているのではない。
私たちは、人生に幸福を求めさまよう。
やっと見つけた幸せというものも、タンポポの綿毛のように、触れて味わうとそれはどこか遠くへ行ってしまう。
つかみ取ると離れていく蜃気楼のような幸せに翻弄される私たちの人生に、安息は訪れるのだろうか?
私たちは、どこにどのように存在するかも知らない幸せを求め、そこにあるかどうかも分からず探し、つかみ取れば消えていく幸せから、満ち足りない気持ちを受け取り人生を送っている。
そろそろ私たち人間は、幸せというものの正体を明らかにし、彼と上手に付き合うすべを理解するべきだ。
幸せをつかみ、それと上手に人生を歩む。
遠い未来のはなしではない。いまここから始めよう。
こんにちは。
谷塚総合研究所・幸せホルモンのセロトニンです。
今日は、星の王子様の著者「サン=テグジュペリ」の名言から学ぶ、幸せシリーズ第一回・所属する。について。
幸せの生態系
多くの人が人生において重要視する幸せというもの。
それを求め人生を送ってはいるが、幸せとは何か?ということを理解している人は少ない。
幸せとは、所属して尽くすことによってのみ、得られることのできる感情だ。
私たち人間は、常に何かしらに所属して生きている。
家族、職場、学校、友人、恋人、サークル。
ひとりの人間であっても、その所属する場に応じて役割が変わる。
家族の中では長男だったり、学校の中では○○委員。
友人の中ではユーモア担当で、恋人との関係では話を聞く人。
ひとりの人間が所属する場所は多岐にわたり、私たちは一日という時間のなかで、多くの役割を切り替えながら演じている。
実際私はいまここで「noteクリエイターの一人」という役割を演じ、この記事を書いている。
所属といっても、規模や人数の大小は関係がなく、例えば個人事業主であれば、いわゆる個人でもあって事業主でもある。
私自身もnoteという世界では、谷塚総合研究所の塚本でもあるが、もちろんnoteでの活動は、私個人に限ったものです。
人生における時間で、人はどこにも属しない個人というものは少なく、大抵は何かしらに所属する一部となっている。
それは、望む・望まないに関わらない。
いくら私たちが唯一の個人であることを求めても、社会はそれを許してはくれず、私たちは多くの時間で何かしらの所属となる。
嫌いな職場、つまらない学校、上手くいかない恋人関係、ギクシャクして居心地の悪い家庭。
それらの多くは、私たちを不幸にしているように感じるものだが、実際はそうではない。
私たちを不幸にするのは、望まない場所に所属することではなく、その所属で私たちが尽くすことをしないことによって生じる。
所属の色は、私たちを不幸にしない。
実際、いくら嫌いで仕方ない場所に所属していても、
そこで幸せを感じなかったという経験は少ないはずだ。
その時間が、きわめてわずかなものであったとしても、そこから幸せを感じた瞬間というものがあったのではないか?
嫌いな職場・学校・友人関係。どのような場所であっても。
好きや嫌いという判断は、残念ながら幸せと不幸に直接的には関係しない。
好き嫌いと幸不幸はべつの天秤で量るものなのだ。
私たちはその瞬間に、どのような場所に所属していても、そこで尽くすという行為を行うことによって、幸せを感じるように出来ている。
どうもそうなっているのだから、受け入れるしかない事実だ。
例えば嫌いな人がいるとする。
彼はあなたの目の前で困っている。
仕方なく助けたとする。
その時、あなたは幸せなのだ。例外はない。
好き嫌いが私たちの幸せに大きな影響を及ぼす原因は、
嫌いな場所で尽くすことをしない私たちにある。
いやいや所属する場所において私たちは、何か尽くそうとは考えず、なるべく傍観者でいようとするのだ。
逆に、好きな場所に所属しているとき私たちは、そこで当事者であろうとし、問題や物事が起きた時、それに対して自ら可能な行動を実行しようとする。
幸せは、望む所属に身を置くことが原因なのではなく、望む所属に身を置く私たちは、自ら進んで尽くすので必然と、多くの幸せを感じることになる。
では、この原理をどのように使いこなし、私たちは人生の多くの時間で幸せを感じることができるのか?
避けられない運命には、自ら飛び込んでみよう。
人生において、自らが望む所属に身を置ける時間というのは、多くの場合少ないものだ。
幸せに対して無知な私たちは、多くの経験を経て、幸せとうまく付き合うすべを学ぶ必要がある。
嫌いなものは嫌いで構わない。
出来ることなら、一秒でもそれと関わる時間を少なくするべきだ。
だが、それが出来ない状態なのであれば、私たちはむしろその嫌いな所属に自ら飛び込んでいくほうがいい。
なぜなら、そのほうが幸せだからだ。
いつまでも嫌いなものを嫌いだと傍観し、そこから遠ざかる行動を起こさないのは幼稚だ。
出された食事から逃れられないのなら、むしろ楽しく幸せにそれを食べてしまおう。
嫌いな所属というものの中にも必ず、好きになれる部分というのが存在するはずだ。
嫌いは嫌いで構わない。
だが、その嫌いの全てを否定する必要はなく、嫌いのなかにわずかに存在する、好きな部分を探してみること。
どれだけ嫌いな人間であっても、その人の全くすべてが嫌いと言うのはなく、どこかしらに尊敬できる部分や共感できる場所が存在するはずだ。
探してみよう。彼のためではなく、自らの幸せのために。
親子、友人、上司部下、隣人。
あらゆる人間関係において、嫌いの中の好きを探す。
これは手段であって目的ではない。
好きであろうと嫌いであろうと、私たちはそこで尽くすのなら幸せになれる。
避けられない運命であるのなら、自ら飛び込み彼に尽くしてみよう。
彼は無関心かもしれない。むしろ攻撃してくることもあるだろう。
構わない。私たちは私たちの幸せを意図的につかみ取る訓練が必要だ。
どのような所属にあっても、そこで私たちが何か尽くすのなら、私たち自身の内側に、幸せは生じる。
泥水の中で、幸せを感じることが出来るようになれば、私たちは
幸せを求めてさまようこともせずに、いまあるこの環境・所属から望むものを得ることが出来る。
お金も時間も、良い友人も必要ではない。
私たちは、所属して尽くすこと。それが唯一の幸せの作り方になる。
最後までご覧いただき、ありがとうございます。
この記事は連載予定で、次回は幸せのために削るものを書く予定です。