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親の選択、子どもの将来〜震災時の決断

子どもの将来を背負うなんて無理だと思っていた。親と子は別人格。どんな将来が待ち受けているかはだれにも分からない。被災地を離れるかどうか、学校はどうするか、感染症が流行する被災地で悩んでいた。

迫られる決断

2024年の1月1日の能登半島地震が起こって以来、決断の連続だった。家族の身の安全を守ること、自宅を片付けて修理すること、仕事を継続できるか判断すること。考える間もなく決断しなければならないことは次々押し寄せる。正解がないので考えても仕方ない。瞬時に判断を下す。

ただ、子どものこととなると話は別だ。
私には中2の難聴の娘と小5の発達障害の息子がいる。娘は自分なりに物事を判断でき好き嫌いも言える。100km離れた金沢市の中学校に通っていたが、発災後は行きたくないという。被災地で家族でいたい、授業はオンラインがあるから大丈夫と。ろう学校の先生やろう協会の方の支援もあり、離れていてもサポートされている感覚がある。

一方、息子も普段通っている特別支援学校や放課後デイサービスを運営している事業者から安否連絡があるので、障害者は手厚くサポートされていると思う。

当時の状況はこうだ。上下水道が寸断され、電力は不安定、インフルエンザやコロナウィルス感染症が流行している。息子の通っていた特別支援学校は再開の目処がない。

子どものことを考えれば、被災地から離れた場所へ避難し、生活を安定させるべきだ。避難先で学校にも通える。感染症の恐れもない。実際に被災後は、息子以外の家族全員がインフルエンザに感染していた。水か無いのは衛生状態が悪すぎる。

合理的に判断すれば避難すべきだ。しかし、一緒に避難所にいた祖母や母は被災地に残るという。仕事もあるし地域のつながりも維持したいからだ。感情は合理的判断を上回らない。それでも子どもを避難させるべきか。

避難を実行する

何度も言うが正解はない。ただ、手遅れにならないような決断は必要だ。私は息子と娘を連れて、金沢市の1.5次避難所に向かった。スポーツアリーナのテントハウスで一晩を過ごした。余震の恐れもないし、水も豊富にある。幸いなことに次の日には、2次避難所が見つかりホテルに移る。

住環境が短期間に激変した。黙ってついてきてくれた子どもたちに感謝する。こうすることが正解かどうかは分からないが、事態を動かすことはできた。

ホテルに移った後は、避難先近くの特別支援学校を探す。連絡するとすぐ学校見学ができ、翌日から通学できるという急展開。ありがたいのだが、息子はどうだろう。通い慣れた土地と学校を離れ、新しい学校に通うことになる。

普段から嫌といわず周りに合わせる子なので、新しい学校に毎日通ってくれている。先生方のサポートも手厚い。通学するようになってから私も自由な時間が持てた。確定申告のこと、自宅の再建、今度の仕事のこと、考えれば切りがないが考える時間が生まれた。

人は贅沢なもので、さらなる改善を求める。時間がもっと欲しくなるのである。学校は朝9時から午後2時半まで。私が送迎する。片道30分とは言え、すぐにお迎えの時間がやってくる。次に考えたのは、放課後デイサービスである。

まもなく訪れる春休み。子どもは暇を持て余し、私は付き添いを余儀なくされる。放課後デイを探すのも必然である。知人に紹介された事業者に電話をかけ、さっそく施設見学の予約をする。ある日学校からの帰り道、息子を連れて施設へ行った。少人数で行き届いた配慮が感じられた。息子に嫌ではないかと確認し即決する。

子どものためになっているのか

しかし、問題は息子が嫌といわない性格である。内心はどうなのだろう。親を信頼して任せているに違いない。はじめて見た施設が好きか嫌いか瞬時に判断できるわけがない。本当に申し訳ない。心の中で頭を下げる。一方で内心ホッとする自分もいた。

決断しながら迷う日々

私はもともと子どもが苦手だった。子どもは遠慮無くズケズケと物を言う。子どもの将来に影響を与えるのも嫌だった。私に教師になるよう勧める人は多くいたが、子どもの将来に影響を与えかねない職業は受け入れられない。固持した。

それなのに、今は自分の子どもとはいえ、次々に選択を迫り環境を変え続けている。正しい選択なのか、ほかに道はなかったのか。考え続ける日々だ。
被災者は毎日決断を迫られると話をしても、実感の湧かない人もいるだろう。私は子どものことだけでも迷いつづけている。住居や家族、仕事のことまで広げると、キャパはオーバーする。迷いながら、苦しみながらでも過ごすしかない毎日だ。

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