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守ることとか。


   (約1,000字)



 数多あるプラットフォームで、
その一人の書いた文章に行き着くこと


 奇跡と呼んでもかまわないかな

 一日にnoteに投稿される件数は、4万件にのぼります


 天文学的数字の確率と言ったら大袈裟ですが、

 いま、私の記事をクリックして読んでくださっているあなたには感謝しかありません



 お釈迦さまに関する本を読み、気持ちが若干、救われる思いがあり、したためようと思う


 一度、約束したこと、信念を持って決めたことは完遂するように心掛けていて

 私は釈迦とは真逆の生き方をしているが、考えを取り入れたい


 記事を書くことで自分自身が救われる

 それについて否定はしないけれど、家族を引き合いに出すのはどうだろう


 有名無名を問わず、どんな些細なことも全世界に伝えられる私たちは、幸せなのか


 そこに犠牲になっているひとが居ないだろうか

 ひと昔前なら隠し通せたことが、世間に野ざらしにされる令和時代を「憂う」気持ちはないか


 子どもは親の持ち物じゃない

 自分が産んだら、
 或いは、
自分の子どもだと認められた間柄なら、

 子どもは親の自由にしていい存在ですか

 そこに一つの人格があって、それを守れないから、子どもが親を憎んだり、親の面倒なんかみないっていう思考に辿り着く世の中にしてるんじゃないか


 私は他人でも守る

 何度だって、助ける

 誰かが挫けそうになっていたら、力になるように支えたい

 味方だと思うひとすら、その保身のためのエゴで「売られる」世の中だから、
 そういうひとは、無自覚で他者を切り捨ててしまうから、自分がされて嫌なことは

 たとえ身内にだってしちゃいけない


環境や状況が整うと、人間はどんなことでもしてしまいます。
 『歎異抄(たんにしょう)』と言う仏教古典の中には、「さるべき業縁(ごうえん)をもよおせば、いかなる振る舞いもすべし」という一説があります。
 これは、縁さえそろえば、「自分は絶対にそんな事はしない」と思うような恐ろしいことでも、してしまうのが人間だと言うことです。

「ほとけさまが伝えたかったこと」より


 人間は縁次第では、どうにでもなるそう


 999人を殺めた人ですら、正しい教えに出会うことで変われる


 縁は、それを憎んでも関わらずにはいられない世の常で、泥の中で咲く蓮みたいに、苦しみや悲しみを知った人は泥に染まらず、美しい花を咲かせるから、その存在が際立つのかと推察できる


 守りたい存在は
何があっても、
自分の盾にしてはいけない








『論語』





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