短編 『 空 』
(約1,100字)
喫茶店では、夕食後のブレンドコーヒーにミルクが添えられていた。
オーダーの際、巻き髪の彼女は何も聞かなかったから、テーブルに備えつけの角砂糖で足りることを告げなかった。
やはり青年が話した通り、コーヒーの味は格別だった。角砂糖は必要なかったかもしれない。それくらいコーヒー自体が鼻腔を心地よくくすぐる香りとあっさりした丁度よい苦味で、満足する代物だった。
読みかけの小説は、次の章に差しかかる前に閉じた。隣りの彼に一つ聞きたいことがあった。
「あー、美味しかった。ジンちゃんが作るスープは最高だね。今日の少し違うの、入ってたでしょ」
ジンちゃんは満足気にカウンターの中から目くばせして、彼に優しい目で感謝に応えていた。その手は忙しく働いているのに、しなやかな動きに見えた。
料理は作り手の感情が味に影響するのだ。
ジンちゃんは気持ちが安定していて、コクのあるビーフシチューも、それを邪魔しないオニオンスープも同じクオリティで提供できる人なのだと分かる。
私は、どうやって話し掛けたらいいのか、戸惑っていた。
「やだ、恋の前みたいだわ」
そんな考えが、彼に声を掛けるのにストップをかけた。読みかけの小説の栞の凹凸を意味もなく確かめていた。
あ、と彼が小さく声を出したのを聞いて、
私はそちらに体を向けた。
しきりにスーツのポケット辺りをパタパタと押さえて首を傾げている。
どうしましたか?ー思わず聞いてしまった。
「あ、いや、忘れてきたみたいで」
そう小声で言いながら、首のあたりを押さえて
小さくため息をついた。
「会社、近くですか」
「すぐ近くですけど、今日はみんな残業しないで帰る日だから、この時間じゃもう閉まってて・・・財布と書類を一緒にしていて、ロッカーに入れてきたんですよ」
節目がちになった表情を、私は忘れないような気がした。
「提案なんですけど、来週、返してくれたらいいです。私も来週、また来ますから。
ビーフシチューを食べてみたくなっちゃった」
「いや、そんな、初めて会った人からそんなことしてもらう訳には・・・」
私は口角を上げて、彼の目から視線を外さなかった。
彼は胸ポケットから小さい手帳とペンを取り出して、会社名と名前、電話番号をメモした。破ると、水色のメモを私によこした。
「証明できないけど、それ、自分の番号ですから・・・ハチって呼んでください」
エイトくんか‥‥きちんと笑えて、泣ける人に見えた。
水色のメモは、手の中に収まるお守り。
簡単に吹き飛んでしまう紙ではなくなっていたのだ。
続く
※フィクションです
↑次のお話です
↓一つ前のお話は、『碧』
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