短編 『 碧 』
(約1,000字)
「まだ明るい」
思わず口から出た言葉は、まるで新作のチョコレートのご褒美スイーツを目の前にした興奮にも似ていた。
手元の腕時計は5時36分をまわるところだった。仕事が早く終わった。半年以上も気になっていた店があり、そこを目指そうと足を運んでいた。仕事が遅くなる日は、一刻も早い帰宅を考える私には「ゆっくりとくつろぐ」夜を楽しむ余裕などない。
家からそう遠くないこの店の外観は、バーにも見えたが、扉の近くまで行ったら店の名前を隠しそうな蔦が絡まる喫茶店だった。
喫茶店だから、23時までになっていたのか一
店の扉を開けると、仄暗い店内がゆったりとした空間を作るのがわかり、
当たりだ
口元がゆるんだ。客の数は少なかったが、夕食を食べた後に、美味しいコーヒーをいただけば帰宅して気持ちよく休める気がした。
丁度、お気に入りの本をバッグにしのばせていた。
席に着いて小一時間経つと、店内に客が増えてきた。
カウンター席の端に寛いでいた私は、パスタセットを食べ終わり、読みかけの小説をバッグから取り出した。
後から店に入って来た青年は、辺りをキョロキョロ見渡した後、二つ隣りの席を陣取る。
「あの、邪魔になりませんか、ここ」
私は小説をバッグから取り出してカウンターの上に置くと、本から言葉の主の方に視線を移した。
「私なら、大丈夫ですよ。後からコーヒーをいただくだけです」
私が答えると、ホッとしたように店員に声をかけた。
いつもの、とオーダーすると、彼はカウンターの中で丁寧に入れるコーヒーをじっと眺めていた。
「いつもの、っていいですね。決まったメニューを頼むんですか」
私が聞くと、彼はうれしそうに笑った。
「いや、いつもと言っても、一週間に一度、食べに来るだけなんです。ここのビーフシチューが好きで」
「じゃあ、他は頼まないですか」
私は咄嗟に、今日が何曜日かを頭の中で、記憶していた。
「他のも美味いんですよ。色々頼んで、どの店と比べてもビーフシチューはここのが一番なんで、こればっかりになったんです」
会話の途中に、ブレンドコーヒーが運ばれてきた。緊張した手つきでエプロンをつけた巻き髪の女の子が、静かにコーヒーを置いた。
「それも、美味しいですよ」
彼は人懐っこい笑顔で、嬉しそうにビーフシチューを待つ。
シャツのカフスボタンは、美しい碧色をしていた。
続く
※フィクションです
↑次のお話です
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