短編 『 墨 』
(約1,000字)
ベランダから見下ろした景色は、遠くまで青空が続く変わりない空のした、小学生がふざけながら学舎にむかってはしゃいでいる。
「空が、高いや」
早朝には小雨がアスファルトを濡らして、
眠っている間にプランターの水やりをしてくれたことに感謝する。
丁寧に紅茶を入れる時間ができた。
残りの少ない蕾を数えてから、季節外れの朝顔の柔らかさと葉の弾力で秋を名残り惜しむ気持ちを噛み締めていた。
だんだんと冬と呼ぶ寒さに近づいている。
寒っ、と呟きながら分厚いカーディガンのボタンを合わせて、部屋に避難した。
今日も長い一日になるだろうか。
テーブルに置いた空色のメモを見て、昨日の出来事を思う。
お気に入りのプレイリストに入った曲を聴きながら熱いお湯をつくる。紅茶は、オレンジが香るベルガモットを選んだ。
ハチの曲だ。失恋の歌だな
ーぼんやりと縁起のよくないことを思い浮かべながら、軽めの朝ご飯を食べた。
今日は仕事を早くあがれるだろうか。
夕方、取引先からの電話で外出することになっていた。電車での移動に30分。
会社に戻っても、その後4、50分ではたいした量の仕事は片付かない。
「お疲れ様です。あの、電車に乗る前に次のイベントの調査も兼ねて、図書館で資料を集めておきたいんです。直帰してかまいませんか」
上司に連絡を取る。
OKはもらった。足取りが急に軽くなる。
もちろん図書館には寄らず、向かう先は自宅からそう離れていないジンちゃんがビーフシチューを出すあの喫茶店だ。
悪いことだという罪悪感はあったが、資料集めは出来ており、家には途中までイベント用の準備は済んでいた。
この心配性の性格もたまには役に立つわ
私はまだ日が傾きかけた坂道を歩き、昨日の喫茶店の前にいた。
何だか初めて扉を開けた昨日よりも、いくぶん緊張していた。
夕方、5時45分。
喫茶店の扉を開けたら、そこにはジンちゃんと楽し気に話すエイトがいた。
え、昨日の今日だよね。
エイトは親し気に笑顔を浮かべていた。
「ちょうど良かったじゃん。自分で渡しな」
ジンちゃんから封筒を受け取り、エイトは
こんにちは、と私を見た。
「こいつ、他人の金でメシ食ったって、気にしてたんだよ。もし、みどりさんが来たら、渡してくれ、って預かるところだった」
よかった、会えた。
会社に初めて嘘の電話を入れた罪悪感は、嘘みたいに忘れていた。
墨のような雲が、夕刻の空に広がり始めていた。
続く
※フィクションです
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