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【#06】10代で出会って良かった本と、いまこの国で大人でいるということ。

大学の図書館はバカでかくて、入学したばかりの私は大学図書館に行くたびに高揚と不安でいつも浮足立った。「世界にはこんなに出会っていないことがある」という好奇心の高揚と、「まだ自分は何も知らない」という未知への不安。この2つはいつも表裏セットで訪れて、それは心地よいものな気がした。

ある日、だいぶ目に痛いショッキングピンクの背表紙に出会った。図書館ではストライプの装丁カバーは外され、むき出しの本体に直接透明のビニールカバーがかけられた状態で棚に差されていた。

内野正幸、菅野仁、苅谷剛彦、玄田有史、紅野謙介、小谷野敦、斎藤環、佐倉統、佐藤健二、島田裕巳、武田徹、西研、浜田寿美男、茂木健一郎、山田昌弘、吉澤夏子による、論考集というよりは”若者”に対するメッセージ集のような。

19歳当時の私は、mixiのコミュニティに参加してマイページにラベルを貼ることに強烈な違和感を感じ、今で言う「分人」的なことに思いを馳せていたり、「いつまでが『いつか』のための時間で、いつから『いま』が始まるんだろう」というようなことを悶々と考えていた。

もやもやしている一方で(ひとりっ子のせいか)昔からメタ認知が高めだったゆえ、「どうせ大人というものになったら、こういう思春期の悩みも忘れて鈍感に生きていくんだろうな」と静観している自分もいた。

そんな時にこの本に出会って、それぞれの悶々には既に名前がついていて先行研究があり、フレームワークがあり、学問として検討しても良いアジェンダなんだと知った。これによりサード自分(*)が軽視していたセカンド自分の悩みを肯定してあげられたのが、当時とても救いになったのだった。

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*『ムーたち』2巻 moo.52
自分を客観視するセカンド自分と、セカンド自分を見つめるサード自分

これは単なる思い出話。

いまこの国で大人でいるということ

本書のタイトルは「いまこの国で大人になるということ」。本を読んでから10年以上経って、自他ともにたぶん私はもう大人だと思う。なので、今この国で大人でいることについて最近あらためて考えている。

「いま」についての感覚は、落合陽一さんが言っているとおりだと思った。

“時間をただ滑っていく日常の中で時代に揉まれたアウトプットばかりになる.自分の立ってた位置が大きな波に持っていかれていく.今ここにある正しい文脈はきっと没個性の文脈だ.時代が望むことであって精神が望むことではない,むしろ精神が安寧を求めて妥協することだ.そして一段とばしで梯子が外れたものと,一気に化石になったものばかりの中で美しいものを探している.化石と空中戦の間で手触りを探している.”

去年は、「言うて(パンデミック禍自体が)初めての体験だし”時間を滑っていく日常”も乗りこなしてみよう」と体力をふりしぼってみた。
でもその根気を2年目に継続することはできず、"没個性の文脈"の顔色をうかがうことにも辟易してきてしまって、"精神が望むこと"を摂取するために貪るようにフィクションの世界に逃げている。

理屈の矛盾とダブルスタンダードの中で、あるような無いような足場をめいっぱいの妄想で補完しながら、いま生きるために仕事をしている。


「この国」への視線として私が抱いている感覚を表すため「山田孝之のカンヌ映画祭」第2話で日本映画大学の先生が言っていた『大喜利』という言葉を引用したい。

みんな大喜利が好きなんですよ。
みんなが同じことを知ってて同じ経験をしてて同じ価値観を共有してるから、小さな価値観の差が楽しいっていうゲームですよね。これって体力がなくなった年寄りの遊びなんだと思うんですよ。
つまり、フィジカルが弱いと思うね。日本映画は。
微細な大喜利ゲーム、センス合戦をいくらやっても国内では評価されるかもしれないけど外行ったら一撃で倒されてしまう。
日本映画だけじゃなくて日本全体がそうなっているし、だんだんその傾向が強くなっていると思う。
業界の中にある、そんなルール誰が決めたんだよっていうルールを守るのが前提で当たり前になっていて、その中でつくっていっても外に出た時に強いフィジカルを持ったものにならない。
もっとひどい目に遭ってつくらないと。

ここの録画を何年も繰り返し見ながら、居心地の良い場所を探してそれなりに社会人経験を重ねていたら、気付いたらMy宗教の信者になっていた。

他宗教を弾圧したり否定はしないけど、例えば「需要があるから今回はプロテスタントの方向でお願いします、同じキリスト教でしょ?」と言われると心がざわざわして涙が出てくる。たぶん私はカトリック原理主義で、居心地の良い教会に籠っている間に踏み絵が踏めないタイプに仕上がってしまった。

つまり何が言いたいかというと、現在いる社会の中で私は自分を異教徒だと思っている。

映画「GO」の杉原父曰く、広い世界を見るには己の拳で外から何かを奪い取って来なければいけない。
殴るのも殴られるのも痛い上に強くならなければいけないからどうしようかな、とうだうだしている。宗教観を受け入れてもらえる居心地の良い場所を探すこともできるけど広い世界も見たいし、とか考えてるだけで行動できない。


そんなこんなの事情で、いまこの瞬間この国で私は大人になり損ねている。

一昨年の方が「大人」でいた気がするから
大人になるということは不可逆な性質変化なのではなくて、大人であったり大人ではなくなったりする、状態を指す言葉なのかも、と思った。

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