見出し画像

Era

自分のやりたいことのあれこれに夢中になっていると
時間があっという間に過ぎる。

月のサイクル的には憂鬱になるはずの時期に
憂鬱にならないまま、気づいたらその時期を走り抜け、通り過ぎている。

そういうことがここ最近とても多い。


「憂鬱さや苦悩は、芸の肥やし」的な考え方もあるけれど

なんてったって、もう令和だしなあ。

「果たして、今の若者たちに、通じるのかな、上に書いたような文言が。」

なんてことは思ったりするし。


芸を続けていきたい私としても、

「肥やし」を得るにもなんかもっと新しいアプローチでいいんじゃないかなあ。


なんてことは思う。

要するに、痛いのも辛いのも苦しいのも、嫌いだってことだ。

「痛いの辛いの苦しいの」に、慣れていくタイプの「不感症」もあると思うし。


私はそっちは嫌なんだなぁ。

気持ちいいこと、楽しいこと、嬉しいことにめちゃくちゃ敏感でいたい。

そして、「痛いの辛いの苦しいの」にも敏感でありたい。

出会ってしまった時に、全力で怒り、拒絶するために、敏感でありたい。



6年くらい前だろうか。
それこそ、常に身体の周りにつきまとう憂鬱に
しょっちゅう悩まされていた時期があった。

でも今思えば、「付きまとわれていた」のではなく

「付きまとわれることを、私が許可していた」

という表現が正しい、と言える。



そのころ、ある人に言われた。

「あなたは、未来に何かを望むということや
 どんな自分になりたいかを想像することなどを
 全くしていない」

核心をつかれたんだろう。
私は胸が酷く痛くなって、泣いた。



想像する。
創造する。
そういうことを、サボって生きていた。

「自分以外の誰か」に任せようとしていた。



自分以外の誰か。例えば、

自分の勤める小学校の図工室で。
自分の営む喫茶店で。

自分以外の誰かが
想像したり、創造したり。

キラキラした目で
誰かがそれをするのを眺めていると
嬉しかった。

それを、応援する気があった。
実際、応援していた。

それで満足だと思っていた。
だけどそれは、盛大に間違っていた。

と、今ならわかる。

「誰かを応援していない時」に訪れる憂鬱や

ふとした時に他者に対して生まれる嫉妬は

なかなかに強力だった。


それに、周りの友達が時々私に投げかけてくれる

「私の『表現』によるお仕事」のオファー。

これを受けるときは、酷く恐れ慄くものの、

結局は、その仕事をやり終える頃には元気がみなぎり湧き出していたから。



自分の未来を想像する。
自分の人生を創造する。

真ん中のところでは、これらをやりたいと
自分の力でやりたいと、
願っている。

それが人間の本質なんだろうと、本望なんだろうと思う。

少なくとも、「私に関してはそうなんだ」ということだけはわかっている。


人が生き生きと
楽しそうに生きているのを見かけた時に
憂鬱や嫉妬が生まれることがあれば、それは
自分の本当の願いに気づくためのチャンスが訪れているに過ぎない。


「自分には無理だ」
「自分なんて」
「自分には無縁だ」

と思っていた、その外側を、自分に当てはめて、想像していい。

願っていい。
願いに向かって行動を起こしていい。


そう思ったら
ゆっくりでも、少しずつでもいいからと
自分に言い聞かせながら日々、行動を重ねるばかりだ。

そうするようになってから、ますますわかってきたことは
自分の元来の強欲さだ。

願う未来に向かうためにやることが多過ぎて、
1日が飛ぶように過ぎる。



暇と憂鬱を、存分に味わって愉しむ era が過ぎたんだなと思う。
それはそれで、自分はその時間を楽しんでいたんだろうと思う。


その中でしか生まれなかった、世界観、独創性、感情の振れ幅の拡充なんかもあったしね。「感性の修行期」とでも呼んでもいいかもしれない。

だけど今の方が、その頃の500倍くらい楽しいから
もうそうそう、憂鬱を肥やしにする時期に戻ることはないだろうなと思う。



今年の夏が、飛ぶように過ぎていく。
暑くて、よく笑って、たくさん汗をかく夏だ。

そして秋が来ることが・・
大好きな人たちとまた笑って迎え入れるんだろうなということが

今、たまらなく嬉しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?