第132話「200階へ」
次の週、その日もリンはユヴェンと一緒に建築魔法の授業に向かっていた。
エレベーターの前で待っていると、突然後ろから誰かが抱きついてきた。
「わっ、だ、誰?」
「誰でしょう?」
「パトルナさん?」
彼女の舌ったらずな声がリンの鼓膜を刺激した。
例によってユヴェンは彼女を見て不機嫌な顔になる。
「びっくりした。どうしたんですか急に」
「ちょっとあなたとお話がしたくって」
パトルナはリンの背中に抱きついたまま言った。
馴れ馴れしい態度だったが、リンは悪い気がしなかった。
彼女にはこういう風にするりと人との距離を縮める才能があった。
しかしユヴェンの顔は不機嫌になる一方だった。
「ねえ。リン。あなた『ラフィユイの魔導書』って知らない?」
「えっ? し、知りませんよ。『ラフィユイの魔導書』? 一体なんですかそれは」
リンはギクリとした。
動揺を悟られまいとどうにか平静を装って返事する。
なぜ今、自分が調査しているものについて彼女は知りたがっているのだろう。
まさか『禁忌魔法の研究』について嗅ぎつけられたのだろうか。
だとしたらマズイ。
事が当局に漏れればリンは終わりだった。
まさかパトルナは自分をゆするつもりだろうか。
リンの頭の中で瞬時に色々な可能性が駆け巡った。
「そう。やっぱり知らないか。『ラフィユイの魔導書』っていうのは、ミスリルの精錬方法について記された魔導書なんだけれど、今、塔全体でミスリルやオリハルコンの需要が増しているそうなの。それでミスリルのプラントが多数ある200階以外でも生産需要が高まっていて、今、大手ギルドも血眼で『ラフィユイの魔導書』を探しているの」
「あ、ああ〜。なるほど。そういうことですか。ハハ」
リンは『禁忌魔法の研究』のことがバレたわけじゃないと分かって、ホッと胸を撫で下ろした。
「ねぇ〜リン。どうにか『ラフィユイの魔導書』見つけられないかしら。それさえあれば私も200階に行けるかもしれないし、クルーガの助けにもなると思うの」
パトルナはリンの首に回す腕をより密接に絡めて、背中にしなだれかかる体重をより増して、甘い声で耳元に囁いてきた。
「いやぁ。僕に言われても。わかんないですし」
「お願い! どうにかイリーウィア様に聞いてくれないかしら。もちろんタダとは言わないわ。お礼は必ずするつもりよ」
「うう、お力になりたいのは山々ですが……」
(というか僕の方が『ラフィユイの魔導書』欲しいくらいなんですけれど)
「あの。パトルナさん。僕はそろそろ行かなくてはいけなくてですね」
「あら。いいじゃない。もう少しこうしていましょうよ」
彼女はエレベーターの前という人が集まりやすい場所であるにも関わらず、抱きついてベタベタとくっついてくる。
リンはどうにか逃れようとするけれど、そこには抗し難い引力があった。
パトルナの熟れた体はその服越しにも分かるくらいで、ユヴェンのまだおそらく清らかな体と違って、複数の男を知っているであろうことがうかがえた。
そしてこれがどうしてなかなか抗し難い魅力を放っており、リンの意志力を奪っていった。
(なるほど。クルーガさんはこれにやられたのか)
しかしこのまま欲望のまま、パトルナの腕の中に溺れているわけにはいかなかった。
先程からユヴェンが無表情でこちらを見ていた。
彼女がマジギレ寸前の時の表情だった。
リンはパトルナの腕に包まれながら、ユヴェンの責めるような視線に晒された。
先ほどからユヴェンの方にチラチラ目配せして弁解の視線を送っているところだった。
しかしそのような懸命な努力にも関わらず、決戦の火蓋は切られてしまう。
「あの〜パトルナさん。そろそろやめてもらえません? リン嫌がってるじゃないですか」
ユヴェンのゾッとするような冷たい声が廊下に響き渡った。
その一言は場の空気を凍りつかせるのに十分であった。
リンは青ざめた。
パトルナはまだ余裕の表情だった。
「あらいいじゃない。私達仲良しだもの。ね、リン?」
「そういう問題ではありませんわ。パトルナさん」
ユヴェンは妙に穏やかな調子で言った。
リンは嫌な予感しかしなかった。
「私が家来として常々目をかけてあげているその子を悪の道に引きずり込むのはやめて欲しいと言っているのです」
「何が言いたいのかしら?」
「私は決して大人の遊びを否定したりはいたしません。大人にはストレスがつきものです。若い頃のように体力と情熱に任せて何でも上手く行くわけではありませんからね。腰は痛いし、息は切れるし、美容も衰える。その結果、不健全なものに縋ったり、不正に手を染めたりするのも仕方ありませんわ。お酒やタバコ、そしてセックス。やたらめったら淫らな行為に手を染めたり、変な性癖に目覚めたり。それはまあ仕方のないことですわ。ただリンのような純情な少年にパトルナさんのような存在は青少年教育上あまりに悪影響が大きいのではないかと、私はそれを危惧しているのです」
「なるほど。つまりあなたは私のことを年増のアバズレと言いたいわけね」
「まあ、アバズレなんて。私、そのような言葉見たことも聞いたこともありませんわ」
「なに清純ぶってんのよ。その歳でそのキャラでその反応はありえないでしょ」
パトルナの注意がユヴェンに向かった隙に、リンはこっそり彼女の腕から抜け出して二人から離れた。
「大体、あんたに悪の道だ、何だと言われたくないわよ。あんたこそ影で絶対色々悪いことやってるでしょ。おそらくイジメとかやってたタイプでしょ」
「言い訳しないでください!」
ユヴェンはピシャリと言った。
「自分のことを棚に上げて、人の非をあげつらうその態度、潔いとは思えません!」
「だから、それ、お前が言うなよ!」
パトルナはついに取り乱して叫び声をあげてしまった。
「もういいいわ。あんたと話してると頭痛くなってくるわ。もう好き勝手言ってなさい」
「じゃあ、好きなように言わせてもらいますけれどね。今すぐクルーガさんと別れてください。というかこの塔から出て行ってください」
(ホントに好き勝手言ってるよ)
リンはドン引きしながら事態の推移を見守っていた。
「それ、あんたがクルーガと付き合いたいだけでしょーが!」
「違いますぅー。ただ単にあなたが目障りなだけですぅー」
「このクソガキャー」
「あの〜。僕は用事があるのでこの辺でお暇しますね」
リンは小声でそう断って退散しようとしたが、二人にその声は届かなかった。
その時にはすでに、彼女らは激しく罵り合っていて、リンの声など聞こえてはいなかった。
次の日、パトルナが200階層に行くための臨時ギルドに参加してくれる人を募集しているというニュースが届いた。
噂によれば彼女は借金までしているらしい。
新聞に広告まで出してその本気度が伺えた。
ユヴェンはそれにいち早く反応した。
彼女は学院の授業を終えてブラブラしているリンの手を引っ張って誰もいない部屋に連れ込む。
「というわけでリン。『ラフィユイの魔導書』を見つけるわよ。手伝いなさい」
「なんでまた急に」
「もちろんあのパトルナとか言う女の200階層昇進を邪魔するためよ」
「お、おう」
「これ以上あの女の好き勝手を許すわけにはいかないわ。先に私達が『ラフィユイの魔導書』を手に入れてあの女の昇級を防ぎ、私達の方が先に200階への道を切り拓くのよ」
「で、どうやって200階に行くの? 僕らはまだ学院魔導師。臨時ギルドで行けるのは100階層までだよ」
「いい方法を見つけたのよ」
「ほう。いい方法とは?」
「次元魔法を使うの」
「ん?」
「次元魔法を使って、階層をまたいでいけば、巨大樹のターミナルを使わずとも200階層まで行けるわ。巨大樹に宿る大精霊の監視をすり抜けられるというわけ」
「ちょっ、待ってよ。それって違法行為じゃないか」
「大丈夫よ。絶対見つからない方法があるの」
ユヴェンは図を書いた。
「100階層と200階層にはそれぞれスラム街があるの。アルフルドにもあるでしょ。得体の知れない住民が占拠している貧民街みたいなものが。ああいうのよ」
「ふむふむ」
「そこに紛れ込みさえすれば、例え紫色のローブを着ていなくても問題ないわ」
「……なんかガバガバ過ぎないその計画」
「大丈夫よ。絶対バレないわ。それよりもグズグズしている時間の方が惜しいわ。計画決行は一週間後。空いてるわよね?」
「よしんばそういう方法があるとしても僕は協力できないよ」
「なんでよ」
「考えてもみてくれ。僕は今、世間から厳しい目を向けられている。ユインの塔への反逆行為に関して、まだ逃亡した弟子達の捜索は続いているんだよ? そんな中で僕が違法行為でもしようものなら、折角晴れた疑いがまた芽生えてしまうじゃないか。塔を追放されるかもしれないし、最悪極刑もありうる。今の僕にそんなリスク負えないよ」
(確かに200階に行って『ラフィユイの魔導書』を見つけられたら『禁忌魔法の研究』解読につながるけれど、塔を追放されたら元も子もない。そんなリスクを背負うくらいなら『禁忌魔法の研究』はひとまず置いといて、将来200階に到達するまで待った方がいいに決まってるよ)
「だからこそよ。そういう風にして厳しい目を向けられている今だからこそ、リスクを犯してでも功績をあげなきゃいけないのよ」
「はあ?」
「あんた王室茶会を出禁にされて、いつまでもイリーウィア様との繋がりを保てると思っているの? ここいらで何かイリーウィア様にいいところを見せなきゃいけないでしょうが」
「いや、それはそうだけれども……」
「それには『ラフィユイの魔導書』はうってつけよ。ミスリルやオリハルコンを生産しまくってイリーウィア様に献上すれば、あんたへの評価はうなぎのぼり間違いなしよ」
「うーん。確かにそうだけど……」
リンは少し考え込む仕草をした。
「ダメだよ。やっぱり危険過ぎる。僕にはできない。やるなら君一人でやって」
「ふーん。そんな冷たい態度をとるんだ」
「もう僕は君には惑わされないよ」
「そう」
ユヴェンはちょっと下を向いた。
「実は決行当日なんだけれど、テリムにも誘われてるの。デートしないって」
「……ふーん。行けば?」
「リン。あなたどうしてそんなツレないこというの?」
「 別に僕が君のデートについてどうこう言う筋合いはないし」
「リン。分かってるんでしょう? 私が別にテリムのこと好きじゃないの」
「えっ? お、おう」
(言った……)
「なのにどうして引き止めてくれないの?」
「いや、テリムのこと好きじゃないなら別に僕がどうこう言わなくても、自分の意思で行かなければいいだけじゃん」
「リン。あなただってもし可愛い女の子にデートに誘われたとしたら、例え興味がなくても、特に用事が無ければ行くでしょう?」
「それは……まあ……」
「せっかく誘ってくれたのに特に用事もないのに断るなんて気が引けるじゃない。例え気が進まないデートだとしても」
「……」
「でも。もし、もしよ。あなたが一緒に200階に行ってくれるなら、テリムにこう言えるわけよ。『その日はリンと特別な用事があるから行けないわ。ゴメンね』って」
「ふーむ」
リンは両手の指を絡ませて弄び始めた。
テリムに一瞬でも勝利できるというのは、リンの虚栄心をくすぐる申し出だった。
(もう一息というところね)
ユヴェンはリンが手を弄び始めたのを見てそう思った。
それは彼の心がぐらついている時の仕草であることを彼女は知っていた。
「あーあ。誰か私を憂鬱なデートから救ってくれないかしら。テリムなんかとデートに行かなきゃいけないなんて、本当に憂鬱だわ」
「うーん。どうしよっかな」
「リン。私だって分かってるわ。あなたはルールを破ることなんてできない真面目な人ですものね。私だってこんなこと頼むのは心苦しいわ。でも……」
ユヴェンは目に涙をいっぱい溜めてリンの方を見た。
「こんなこと頼めるのあなたしかいないの」
「分かりましたよユヴェンさん。君のために一肌脱ぐよ。一緒に200階に行こう」
(チョロいもんね)
ユヴェンはリンに見えないようにほくそ笑んだ。
「ありがとう。あなたならそう言ってくれると信じてたわ。本当にゴメンね。それじゃあ具体的な計画だけれど……」
二人は200階に行くための具体的な計画について段取りし始めた。
最後に彼女はこう付け加えた。
「ちょっと年上というだけで私達に禁止されてることが許されるなんて。そんなの認められないわ。絶対にあいつの思い通りにはさせないんだから」
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