閉店した「人蔘湯」を引き継ぎます 〜地元豊橋に、銭湯のある風景を〜
「豊橋なんて、何もないよ」
私の地元の愛知県豊橋市では、市民がこんな台詞を口にするのがいつものこと。
そんなまち豊橋で、この度、人蔘湯(にんじんゆ)という銭湯を引き継ぐことになりました。
その胸のうちを、ここに記しておきます。
豊橋の愛らしい銭湯「人蔘湯(にんじんゆ)」
人蔘湯は、豊橋駅から徒歩15分ほどの小さな銭湯。
看板建築のちょっぴり洋風な外観で、室内のタイルや照明も可愛らしいです。
コンパクトながら、浴槽の種類は豊富!なかなかできるコです。
2020年8月からボイラーの故障で休業されていたところ、銭湯活動家の湊くん率いるゆとなみ社が継業することに。
私はこれまでゆとなみ社が経営する京都の銭湯で働いていて、豊橋出身なので人蔘湯の店長職に就くことになりました。
人蔘湯は私の中学校区にあり、昔から馴染みのエリアだったのです。
豊橋の水上ビルに生まれて
私が生まれ育った家は、人蔘湯から程近い、水上ビルの一画。
水上ビルとは、戦後に牟呂用水という水路を暗渠化し、その上に約800メートルも連ねて建てられたビルです。
自分にとっては当たり前の存在でしたが、大学で建築の道に進むと、この建物の特殊性を認識し始めます。
豊橋の特徴の一つだと思うようになりました。
最近では、ここでイベントが開催されたり、新しいお店も増えています。
あいちトリエンナーレの会場として使われたこともあるんですよ。
・・・
次第に、「豊橋なんて何もない」という台詞に疑問符がついてきました。
本当は豊橋にも「何か」があるのでは…?
当たり前すぎて気づいていないだけなのでは…?
社会人になって京都に移り住んだのですが、その理由の一つは、地元を「外からの視点」で見られるようになりたかったから。
実際に移り住んでみると、京都と地元が比較できて、地元の特徴をたくさん再発見できるようになりました。(もちろん京都には及ばないことばかりですけど)
そんな中、京都で銭湯にのめり込んで行き、地元も「銭湯」という視点で見るようになります。
2014年11月。菊乃湯、最後の日
京都で銭湯の間取図を描いて発信する活動を続けていたある日、豊橋の「菊乃湯」の廃業の報せを耳にします。
菊乃湯は水上ビルから一番近い銭湯で、同級生の実家でもありました。
廃業せずに続ける道はないものかと声をかけたりもしましたが、力及ばず。
せめてもの思いで、女将さんに寄せ書きを贈る企画を立てました。
SNSで地元の人たちにも拡散してもらい、沢山の方にご協力いただけました。
菊乃湯は残せなかったけれど、豊橋にも銭湯を惜しんでくれる人たちがいる。
私にとって希望の光を感じられた機会でした。
あの日の菊乃湯での出会いは、人蔘湯にも活かしていく予定です。その話はまたいつか。
市電のある風景、銭湯のある風景
さて、何もないと言われるまち豊橋に、「いやいや、あるぞ」と認識できたものの一つが「市電」です。
私にとって市電の存在が大きいのは、幼い頃から伊奈彦定先生の絵を見てきたから。
伊奈先生は、長年に渡り市電のスケッチを描いてこられた方で、私が小学校の時の校長先生でもありました。
その絵はカレンダーや画集にもなっていて、豊橋市民にとってお馴染みの存在です。私はファン歴30年ほど(!)
ふるさと納税の際には、返礼品に伊奈先生の画集を選びました。
画集には、これまで描かれた風景に加え、市電のある豊橋の未来像も。
伊奈先生は、市電を描くことを通して、豊橋というまちに対して新たな視点を与えてくれているんだなぁと感嘆しました。
私もそんな存在になりたい!
と、銭湯を描くようになった今、強く思います。
風景とは、そこに営みがあってこそ意味があると思います。
人蔘湯を営みながら、時に絵に描きながら、豊橋に「銭湯のある風景」を守っていく。
小学生だった私に伊奈先生が「市電のある風景」を魅せてくれたように、「銭湯のある風景」を次世代の子どもたちへ。
そして、営みは自分だけ完結するものではありません。
人蔘湯の女将さんや常連さん、水上ビルや菊乃湯で出会った人たちをはじめ、たくさんの人との関係を大事にしながらやっていきたいです。
そんな中で、「あれもある」「これもある」と気づけて、そして「銭湯がある」ことを誇ってもらえるような、そんな豊橋に、人蔘湯にしていくことが私の野望です。
再オープンに向けて
これから故障箇所の修繕や改修の期間を設けて、春頃に再オープンの予定です。
詳細は追ってお知らせしていきます。
どうぞこれからお引き立ての程よろしくお願い申し上げます。
P.S.
人蔘湯周辺のエリア特性を掴むために描いた地図です↓↓
こうして書き出しながら眺めてみると、なかなかポテンシャルのあるエリアです。
周辺と合わせて楽しんでもらえるスポットにしていきたいナ〜