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「そもそも好きが見つからない」そんな人のための自分整理術

「好きを仕事にしたい」

その願いは多くの人が抱き、仕事にやりがいを求めている人も多い。

けれども、好きなことをどう仕事としていけばいいかわからない・うまくいかないという人よりも、そもそも好きが見つからないと悩む人の方が実は多いんじゃなかろうか。

私もその一人だった。

今回は、そんな私が遠回りしつつも今の納得いく自分の道を見つけられたことを振り返り、そもそも好きが見つからないと悩める人が一体どうしたらいいのか、そのヒントになりそうな気づきを書いてみようと思う。

私がそうであったように、そもそも好きなことがみつからないという人は、好きとは何ぞやということがわかっていない上に、自分が本当に求めているものがわかっていないのだと思う。

問いの答えがいまだ出ていないということは、違うアプローチが必要か、もしくは問い自体が違っている可能性があるので整理が必要だ。

好きなことでどう稼ぐかがわからないというのとはわけが違い、「自分が好きな事すらわからない」と悩んでいるということは、つまり問題は自分の事がわからないということなのだ。

まず、好きとは何ぞやについて、少なくとも私は完全に勘違いをしていた。

私は「好き」にこだわっていた。

好きという感情を、燃えあがるような熱を帯びたもののように認識していた。

「好きなことして生きるのが一番」「好きなことならいくらでも続けられる」など、好きを語る人たちは皆一様に、キラキラワクワクして熱く語っていることもそれを裏付ける十分な肯定材料となっていた。

それになぞらえてみればみるほどなんだかよくわからなくなって、自分にはそれほど好きと言えるものがないように思えてくる。

しかし、そもそも好きというのは熱狂的に夢中になることとは限らないのだ。

大事なことなのでもう一度言うけれど、「好き」とは熱狂的に夢中になることとは限らない。

結果的に納得いくことを見つけられた私が今感じていることは、創作活動に対する想いはキラキラワクワク興奮状態のようなものではなく、どちらかというと平常心でまるで空気のように当たり前で自然だということだ。

好き・嫌い・怒り・悲しみ・喜び・憎しみ・・・ドキドキワクワクドロドロモヤモヤなどなど刺激の強い感情・興奮状態ばかりに注目していると、強い刺激がないことを軽視しがちになり自分がわからなくなる。

脳みそが喜び求めるものと、心が喜び求めるものとは違う。

内なる自分は、もっと微細で複雑で、そしてシンプルだ。

「好きを勘違いしていたことが人生すべての滞りになっていた」

これはすごい発見だと思う。

好きなことが見つからないとお悩みのあなたには、まずは「自分にできること」つまりすでに今していることに取り組む姿勢をこれまで以上に大切に考えてみることをおすすめしたい。

興奮を求める脳みそは退屈を嫌うので、自分がしていること【すでにもっているもの】というのは好奇心や情熱を掻き立てることもなく取るに足らない面白みのない日常の延長に感じられるかもしれない。

できることばかりしていても成長できないなどと考えがよぎるかもしれない。

でも、子どもの頃にやっていたことや普段からやっていること、すでに今就いている仕事や日常的にこなす家事など、当たり前すぎて特に輝いたものには見えないような自分にとっての「超普通」こそが、広がりや深まりが起きる可能性に満ちた生まれ持ったギフトであり縁だったりすると考えてみると、また違うものが見えてくる。

好きが見つからない人は超普通を軽んじがちで、同時に「特に自分には突出した個性もない」とも感じやすい。

けれど、個性がない人はいない。

これは断言できる。

そもそも「個性」の定義づけがあやふやでは個性を活かしようもないのでここではっきりさせてみよう。

「個性を活かす」というと、人より秀でた何かがなくてはダメとか、得意なことがなければダメと思いがちだがそれは違う。

個性とはもともと持っている能力や成功事例だけでなく、持っていない能力やこれまでの失敗などを含めさまざまな経験や学び・縁の集合体のことで、そもそも同じ人はこの世にひとりもいない。

生きてるだけで個性爆発なはずなのだ。

視点を変えると世で活躍している人もむしろ苦手なことやウィークポイントをヒントにして突き抜けた人も結構いることに気づく。

個性についてこう定義付けてみよう。

・「個性」とはこれまでの自分の集合体

・「個性を活かす」とは自分の中の様々なパーツを結び付け組み立てて活用すること

こう定義すると、フツーの会社員やバイトなんてつまらない、家事なんて意味がない…などとぼやいて、目の前のことをくだらないこととして蔑み、気持ち半分でやり過ごすのは一番もったいない。

だって、すべてが個性を作る大切なパーツなのだ。

ありきたりだけど、日ごろなるべく目の前のことに丁寧に生きようとすることはやっぱり大事なことじゃないかと思う。

少なくとも私はこれまでのあらゆる経験が今に活かされていると日々実感している。

だから今している事も、きっと未来の自分の個性のパーツとして活かされていくと確信している。

私の今の美術作家としての製作活動を気持ちを表す言葉として、その特別さを「好き」という言葉が適切に表しているか、どうしても慎重になって、もっとふさわしい表現があるような気がしてしまうことがある。

正直言うと、以前ハマった様々なハンドクラフト類の方がずっと熱狂的に楽しんでいて、軽率に楽しい!好き!と言えた気がする。

でも私を満たすものはそれではなかった。

今は決してわかりやすい燃え上がる情熱ではないけれど、より自然で、日常的で、心の喜びになっている感じがしてる。

誰かが作品を評価してくれたり、それによって収入が得られることは、とても嬉しいことでやりがいにもつながっていて有難いことだ。

けれども、そうしたある種の見返りがなくても、当たり前であるかのように取り組んでいるという感覚もあって、この自立感こそが本当の意味で「好き」ってやつなのかもしれない。

そしてこうも思うんだ。

私は必ずしも好きを仕事にしたいわけじゃなかったんだと。

自分にとっての超普通を、飽きることなく続けていることが嬉しいんだ。


ありがとうございます 嬉しいでーす ╰(*´︶`*)╯♡