ヨルアルク

 ファンを増やす! などと、鼻息荒くはじめてみたものの、気がついたら初回から随分と日が開いてしまった。

 書きたいことは思い浮かぶのだが、どうにも頭に靄がかかったようで言葉になってくれない。なにをそんなに疲れているのだろうか、と訝りながらも寝落ちする日々であった。

 そこで昨日、はた、と気がついた。――逆だ。

 疲れなさすぎなのだ。

 思えば以前の仕事は何かと動いていた。飲食店のホールスタッフが意味もなく立ち止まっていることは、すなわちサボタージュとみなされる。しょうがなく暇な時間帯も何かと仕事をするふりをして歩き回っていたものだが、現在の仕事は製造業なので、ほとんど動かないのだ。

 転職後の半年間で2キロも増量してしまったことだし、立ち仕事でふくらはぎが浮腫むのは筋力不足が原因であるらしい。それらの解消にスクワットを始めることとした。これがなかなか気持ちがいい。

 ひとりでホールの閉め作業をやってヘトヘトになっていたときは、できれば次は動かない仕事がいい、などと考えていたのだが、人間の機能として運動をしない、汗をかかないというのは良くないようだ。

 さらにもっと気持ちが良いことにも気がついた。

 ことの詳細は省くが、随分と久しぶりに夜の街を歩いた。まっとうな仕事についてから深夜に出歩くことはほとんどなくなってしまったから、新鮮な気分だった。

 しばらく見ないうちに駅前には新しい店が増え、商業施設同士を結ぶ橋が渡されていた。

 それが何だといえばそうなのだが、いろいろなことに興味を失っていたのだな、と感じたのだ。

 意図的にそうしていた部分もある。その時は外界をシャットアウトせざるをえなかった。やっていることが、自身のキャパシティを遥かに越えてしまっていたのだ。とにかく閉じこもりたかった。

 でももう、充分なのかもしれない。もう少し外にでて、人と会うべきかもしれない。

 歩くことがトリガーとなって、錆びついた感性が機能しだした感がある。そうして、帰路にこのコラムの大枠を思いついた次第だ。

 そういえば、自分の感覚の変質にも驚かされた。夜道が怖いのである。後をつけられたらどうしようとか、通り魔に遭ったら嫌だとか、そういったことを考えていた。

 当たり前といえば当たり前かもしれないが、つい最近まではこういった恐怖心が希薄であった。生きることは私にとって何の価値もないことだったからだ。望んでもいない義務を課せられたとすら感じていた。かといって自死する決意もなく、偶然にやってくるその時をぼんやりと待ち続けていた。

 生きることが億劫であるというと何かと説教を受けるのだが、そう感じてしまう理由を他人に理解してほしいとも思わないし、できるとも思わない。

 様々な事情で自分自身に生きる価値を感じない人間は、世の中に一定数存在する。

 お前は歌を作れるし歌えるじゃないか、楽器だって演奏できる、こうやって文章も書けるじゃないか、他の人よりずっと才能豊かだ、と励まされるのだが、そういうことではないのだ。

 根底に「なにをしようとなにができようと、お前は無価値である」という狂った定義を持つ以上、どういわれようとゴミはゴミなのである。この定義を持つに至る経緯を知ってもなお、取り除くことが困難なのである。一生治らないような気もする。

 それでも、私にとって、この世界と自分自身は価値があるものに変わったのかもしれない。多少は。

執筆活動で生計を立てるという目標を持っております!!