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炭治郎に愛はなく、憎珀天は論理的だった。 論理と非論理を分けるもの。

 炭治郎と憎珀天の言い合いを、論理につなげて話します。先日、「鬼滅の刃 刀鍛冶の里編」をとおして見ました。「遊郭編」は一話配信されるごとに見ていたのですが、子どもたちと別居するようになって(!)アニメを見る機会が少なくなりました。「刀鍛冶の里編」を見る機会を逸していたのです。「論理的」とは何でしょうか。炭治郎と憎珀天の言い合いをとおして、「論理的とは何か」を理解できる内容です。

憎珀天 : 何ぞ、ワシのすることに何か不満で
     もあるのか? のう、悪人どもめら。
炭治郎 : どうしてオレたちが悪人なんだ?
憎珀天 : 弱き者をいたぶるからよ。
      のう、先程貴様らは手のひらに乗る
     ような小さく弱き者を斬ろうとした。
      何という極悪非道。
      これはもう、鬼畜の所業だ。
炭治郎 : 小さく弱き者?
      誰が、誰がだ、ふざけるな。
      お前たちのこの匂い、血の匂い。
      食った人間の数は百や二百じゃない
     だろう。
      その人たちがお前たちに何をし
     た!?
      その全員が命をもって償わなければ
     ならない事をしたのか!?
      大勢の人を殺して食っておいて被害
     者ぶるのはやめろ。
     ねじ曲がった性根だ。
     絶対に許さない。
     悪鬼め、お前の首はオレが斬る。
憎珀天 : 言うことはそれだけか?
炭治郎 : お前の首はオレが斬る。
憎珀天 : ワシが食った人間どもに、貴様の身
     内でもいたのか?
炭治郎 : いや……。
憎珀天 : では貴様に関係なかろう。
炭治郎 : 関係あるとか無いとかじゃない。
      そのような人、このあと同じような
     思いをする人。
      オレはこれ以上、出させない。
憎珀天 : そいつらとも貴様は関係なかろう。
炭治郎 : 人が人を助けることに何の理由がい
     る?
      そんなことも分からないお前の方こ
     そ鬼畜だろう。

「鬼滅の刃 刀鍛冶の里編」第七話「極悪人」より

1.水かけ論は、論理的ではない

 議論の良し悪しを分けるものは何でしょうか。議論には「良い議論」と「悪い議論」があります。良い議論は、話し合いをしたかった点、いわゆる論点が深まります。それに対して悪い議論は、論点が深まらず、場合によっては相手を罵倒するばかり。悪い議論は、水かけ論とも呼ばれます。

 水かけ論にならないようにするには、相手が提示した論証を検討しなければいけない。示された根拠は正しいのか。その根拠からその主張は説得力をもって導かれるのか。こうしたことを検討する。たんに相手の主張を否定するのではなく、その論証の不備を示すのである。ここに、水かけ論になるかならないかを分ける重要なポイントがある。

「大人のための国語ゼミ」野矢茂樹

 水かけ論とは、お互いに言いたいことを言うだけの議論です。相手の言うことを聞き流し、自分が用意した意見のみを言い放つ。議論は深まらず、意見に優劣はつけられず、平行線のまま。

 良い議論にするには、お互いに相手の主張を検証しなければなりません。自分の意見と相手の意見を比較し、どちらが優れているか。あるいは、どちらを採用するかを決めます。それも、ただ単に好き嫌いで決めるのではなく、誰もが納得するように客観的に。第三者が聞いても「なるほど、確かにそのとおりだね」と納得するように優劣を決められてこそ良い議論です。水かけ論を脱するにはどうすればいいのか。まずは主張に理由をつけることです。

 例えば、アナタは「炭治郎の性格」について友人と議論(話し合い・言い合い)しているとします。「炭治郎は優しい」と考えるアナタに対して、友人は「炭治郎は残酷だ」と考えています。ここで、お互いに考えを主張するだけでは水かけ論です。アナタは「炭治郎は優しい」と言い、友人は「炭治郎は残酷だ」と話す。どちらの主張が優れているのか、優劣を決める要因はなく、判定不能。そこで、主張に理由をつけます。

 主張に理由をつけることで、水かけ論から脱する準備ができます。アナタと友人、今度は理由をつけての主張です。
アナタ 「炭治郎は優しい。なぜなら、炭治郎はいつも皆んなを助けるから。」
友人 「炭治郎は残酷だ。なぜなら、炭治郎は相手を刀で斬るから。」
 理由をつけるだけで、主張を言い放つだけの時よりも誠実な印象を受けますね。これで水かけ論から脱する下地が整いました。でもまだ脱してはいません。せっかくお互いに理由をつけて主張しているので、この理由がどの程度の説得力があるか検証します。

 相手の理由を検証することで、水かけ論から脱することができます。相手が示している理由を無視しては、議論は平行線のまま。相手の理由「炭治郎は多くの相手を刀で斬るから」に、どの程度の説得力があるのか検討します。友人はアナタが示した理由「炭治郎はいつも皆んなを助けるから」に狙いを定めてくるでしょう。お互いに相手が示した主張に対する理由を検証することで、議論は水かけ論でなくなるのです。

 理由を検証する方法は二種類あり、「独断でないか」と「飛躍はないか」です。

 「独断でないか」とは、理由が本当かどうかです。友人は「炭治郎は相手を刀で斬るから」と理由を述べています。これは本当でしょうか。アニメを見る限り、これは本当のようです。実際、炭治郎は退治した相手を刀で斬ってきました。体に太鼓を生やした響凱も、下弦の壱・魘夢も、上弦の陸・妓夫太郎も、すべて刀で斬って倒してきました。
 「飛躍はないか」とは、主張を支えられているかどうかです。理由が主張を支えられていないとき、そこには「飛躍がある」と言います。「理由が主張を支えられていないとき」とは、説得力がないときです。例えば、ユニクロで安くて格好いいTシャツを探しているとします。アナタは2000円の赤いTシャツを買おうとレジ待ち。そのときにお母さんが、青いTシャツを持ってきてこう言いました。「こっちのTシャツの方がいいよ。だって1500円だし」と。もしもアナタが探しているのが安いTシャツなら、「だって1500円だし」は「こっちのTシャツの方がいいよ」を支えられています。値段が安い方がいいTシャツなので飛躍はありません。けれどアナタが探しているのは、安くて格好いいTシャツです。単純な値段の優劣ではないので、「だって1500円だし」は「こっちのTシャツの方がいいよ」を支えられているとは言い切れません。もしもこの場合に500円の差が魅力的なのであれば、「だって1500円だし」は説得力を持ち、「飛躍はない」と言えるでしょう。「飛躍はないか」とは、理由が主張を支えられているかどうか、それによって説得力があるかどうか、なのです。

 友人が示した「炭治郎は相手を刀で斬るから」は、「炭治郎は残酷だ」を支えられているでしょうか。ここには飛躍があるように見えます。というのも、炭治郎が斬っている相手は人に害をなす鬼であって、その鬼を斬ることすらも残酷といえるのか微妙だからです。

 飛躍があるときは指摘しましょう。
 「炭治郎が相手を刀で斬るからと言って残酷だとは言えない。なぜなら、刀で相手を斬るのは、残酷さではなく正義感だからだ。鬼を倒さなければ多くの人間が食い殺さる。鬼を倒すには日輪刀で斬るしか方法がない。炭治郎が相手を斬るのは残酷さ故にではなく、人間を守りたいという正義感故にだ。」
 このように指摘することで、理由が主張を支えられているかどうかを確認できます。アナタと友人、どちらの主張に説得力があるのか。友人はなおも言い返すかもしれません。「いくら人間を守るためとはいえ、生き物を斬るのは正義感とは言えない。鬼も人間と同じ生き物だ。」と。そうしたら、また相手の理由を検証します。どちらの言い分に説得力があるかの勝負です。

 同じように、友人はアナタの理由を検証してくるでしょう。「独断でないか」と「飛躍はないか」を使って「炭治郎は優しい。なぜなら、炭治郎はいつも皆んなを助けるから。」の説得力がどの程度のものか試してきます。
 炭治郎は本当に「いつも皆んなを助け」ているでしょうか。独断ではないでしょうか。微妙です。というのも、助ける相手と助けない相手とが別れているからです。禰豆子や善逸などの家族や仲間は助けていますが、鬼を助けることはしません。基本的に炭治郎にとって、鬼は助ける相手ではなく倒すべき敵です。鬼を助けなくても、なお「皆んなを助ける」と言えるかどうか。そこを説得力をもって理由付けできるかが、独断ではないかどうかのポイントでしょう。
 「皆んなを助ける」は「炭治郎は優しい」を支えられているでしょうか。飛躍はないでしょうか。もしも「炭治郎が皆んなを助ける」が本当であれば、「炭治郎は優しい」と言えそうです。辞書で「助ける」を調べると「困っている人などの苦しみや負担を軽くする」とあり、これは優しさと言えます。飛躍はなさそうです。

 このように、水かけ論から脱するには、相手の理由を検証することです。主張は、それ単体では説得力を持ちません。理由に支えられてはじめて説得力を持ちます。意見に説得力があるかどうかは、理由を検証してはじめて分かること。お互いに主張を言い放つだけでは、双方の意見の優劣を判定することができません。議論の目的、すなわち「どちらの意見が優れているか」「どちらの意見を採用するか」は、主張を支える理由を検証することで見えます。相手が示した理由を「独断でないか」「飛躍はないか」の目で見ることで、不毛な水かけ論から抜け出せるのです。

 水かけ論は非論理的であり、対して水かけ論でない議論は論理的です。非論理的かそれとも論理的かとは、説得力の有無です。水かけ論ではお互いが言いたいことを言い放つだけで、説得力もクソもありません。「自分の主張の方が、相手の主張よりも優れている」ことを判定する材料が無いのです。これは非論理的です。
 対して水かけ論でない議論には、説得力があります。お互いが理由をつけて主張する。「どうして、そう言えるのか」を明言して主張しており、どちらにより説得力があるのかを、お互いが検証できる。議論に参加していない第三者でさえも、説得力を比べられる。議論は、理由という優劣判定の材料が添えられ、その材料が検証に耐えるだけの耐性をもって、説得力を帯び、論理的と言えるのです。

2.炭治郎と憎珀天。二人の論理性はどうか。

(1)憎珀天の論理性

 さて、随分と遠回りをしました。実際、作中の二人はどうだったんでしょう。炭治郎と憎珀天、二人の論理性を冒頭の議論(言い合い)から見比べます。

 憎珀天が炭治郎の前に現れてすぐ、まずは主張します。
「のう、悪人どもめら」
 その主張に理由を問う炭治郎。
「どうしてオレたちが悪人なんだ?」
 間髪入れずに返す憎珀天。
弱き者をいたぶるからよ。のう、先程、貴様らは手のひらに乗るような小さく弱き者を斬ろうとした。何という極悪非道。これはもう、鬼畜の所業だ。
理由を問うた炭治郎へのこの返し。憎珀天の返答は論理的と言えます。というのも、「わかりやすく的確」であり、しかも「論理構成がしっかりとしている」からです。

 憎珀天の返答はわかりやすく的確です。余計な語句を用いておらず、シンプル故にわかりやすい。加えて的確です。「弱き者をいたぶるのは悪人である」という理屈を聞いて、多くの人が「それはそうだろうな」と納得するでしょう。これは、的確な答えだから納得するのです。もしも的確でなかったなら、この納得感は得られません。

  私たちの周りには、質問に対して的確に答えられない人がたくさんいます。「それって答えになってないんじゃないの?」と思わずにいられない返答をする人。以前、私は会話の中で「〇〇さん(その場にいない人物)って厳しい人ですよね」と言ったところ、会話相手から「私は好きですよ」と返答されたことがあります。私は「厳しいかどうか」を聞いたのに「好きですよ」の答えって……。
 炭治郎も、議論の後の方で「ワシが食った人間どもに、貴様の身内でもいたのか?」との問いに「いや……」と口ごもり、ハッキリしない返答をしました。これは的確ではありません。「弱き者をいたぶるから」との返答は、わかりやすく的確なのです。

 憎珀天の返答は、論理構成もしっかりしています。文章をわかりやすくするには、まずはシンプルに概略を書き、それから丁寧に詳しい説明を書くこと。「論理的な文章」について多くの著書がある小野田博一氏は、「論理的な小論文を書く方法」の中で次のように述べています。

よくある「悪い文章」のもう1つは、『何を述べようとしているかを明かさずに細かい話を始める』文章です。

小野田博一「読み手を100%納得させる論理的な小論文を書く方法」

 つまり、詳しい説明の前に、これから何を説明しようとしているのかを簡単に書くこと。それが論理的な文章の構成なのです。このことはランニングによく譬えられます。ゴールを示されないで中でのランニングはつらいもの。いつまで、どこまで走ればいいのかわからないので戸惑います。ゴールが示されてはじめて、どのようにランニングしたらいいのかが分かり、安心して走ることができます。例えば「今日は10分間、走ります」とか「2キロ走りましょう」と走る前に言われれば、走るペースの目安ができて安心します。ランニングの前にまずはゴールを示すように、詳しい説明をする前にまずは簡単に説明する。それが分かりやすい書き方です。
 憎珀天の返答の構成は論理的です。まずは「弱き者をいたぶるからよ。」と簡単に一言で説明し、その後で「先程、貴様らは手のひらに乗るような小さく弱き者を斬ろうとした。何という極悪非道。これはもう、鬼畜の所業だ。」と詳細を説明する。論理構成がしっかりとしていてるのです。

 このように、憎珀天の言い分は水かけ論ではありません。炭治郎の問いに対し、わかりやすく的確に答えており、しかも論理構成がしっかりとしている。憎珀天の言い分は、論理性が高いのです。

(2)炭治郎の非論理性

 では炭治郎の方はどうかというと、非論理的です。憎珀天に対し、水かけ論を展開しているからです。
 炭治郎は、憎珀天の「炭治郎らは悪人である。弱き者をいたぶるから」という旨の返答を無視してしまっています。もしも論理的な返答をするのであれば、憎珀天が言った「弱き者をいたぶるから」という理由を検証するべきです。「独断でないか」と「飛躍はないか」のふるいに掛け、理由(弱き者をいたぶるから)が主張(炭治郎らは悪人)を支えているのか、確認するべきです。
 けれど炭治郎は、自分の言いたいことを言い放つだけでした。
「小さく弱き者? 誰が、誰がだ、ふざけるな。お前たちのこの匂い、血の匂い。食った人間の数は百や二百じゃないだろう。その人たちがお前たちに何をした!?その全員が命をもって償わなければならない事をしたのか!?大勢の人を殺して食っておいて被害者ぶるのはやめろ。ねじ曲がった性根だ。絶対に許さない。悪鬼め、お前の首はオレが斬る。」
 せっかく憎珀天が主張を支える理由を示したのに、これを活かしきれていません。これでは憎珀天も理由を示した意味がなくなってしまいます。まさにこれが水かけ論なのです。

 そんな非論理的な炭治郎に、憎珀天はなおも論理的に問いかけます。炭治郎の発言をわざわざ論理的に解釈しようとし、理由を検証しているのです。
「ワシが食った人間どもに、貴様の身内でもいたのか?」

 炭治郎の言い分をわざわざ論理的に解釈すると、こんな感じです。

「お前の首はオレが斬る」
「(お前の首をオレが斬るのは)ねじ曲がった性根だから」
「(ねじ曲がった性根なのは)たくさんの人を食っているから」

 この「たくさんの人を食っているから」に憎珀天は狙いを定め、「飛躍はないか」と検証してきているのです。憎珀天の言い分は、「たとえたくさんの人を食ったとしても、その中にお前の身内がいないのなら、ねじ曲がった性根とは言えない(お前に関係ない)」というものでしょう。感情的になって論理性を忘れている炭治郎に対し、なおも論理戦を仕掛けてきているのです。

 しかし、この後の返答で炭治郎は、またしても非論理的な発言をしてしまいました。しかも今度のは致命的です。
「人が人を助けることに何の理由がいる? そんなことも分からないお前の方こそ鬼畜だろう。」
 あろうことか、理由を明言することを放棄し、「理由無しで理解できない者は悪鬼である」と断罪してしまっています。これは二重の意味でよくありません。「理由はいらない」という発言と、「理由はいらないことを理解できないなら悪鬼である」という独断です。

 論理的であるためには最低限必要なものがあり、それは理由です。論理は、主張と理由の間に現れるもの。理由がうまく主張を支えられたときに説得力が現れる。そのときに「論理的である」と言えます。よって、主張と理由がなければ「論理的」ではあり得ないのです。多くの人は、主張はすれど理由を言いません。「自分の思いはこう」という主張はあるのですが、それを支える理由を提示できないでいる。だから、作文指導では「理由を書く」ように指導します。主張を支える理由を書いて、論理性を出すのです。

 けれど炭治郎は、理由でもって相手を説得することを放棄してしまいました。これは由々しき事態です。というのも、歴史を凌虐する暴挙だからです。論理学の始まりは、今から2500年前に遡ります。古代ギリシャのアリストテレスが論理学の祖と言われます。アリストテレスが、一番古い論理学の著者だからです。古代ギリシャの時代から人類は、誤りをなくして真実にたどり着く方法として、論理学を継承・発展させてきました。私たちが、「相手を説得するにはどうすればいいか」を知っているのは、頭のいい先人たちが知恵を働かせてこの問題を精一杯考えてきたからです。炭治郎は、そんな知の歴史を捨ててしまったのです。理由をもってして主張を支え、何が正しい判断かを促す論理を自ら手放し、「何の理由がいる?」と言い放った。

 さらに炭治郎は、独断をもって畳み掛けます。
「そんなことも分からないお前の方こそ鬼畜だろう。」
 
これはいけません。理由なしの主張のみです。これまで説明したとおり、主張を支えるには理由が必要です。相手に「なるほど、確かにそのとおりだね」と思わせるには説得力が必要であり、この説得力は理由が主張を支えることで生じます。
 もしも理由なしで相手が「なるほど」と思うことがあったなら、それは初めから価値観が同じであったというだけのこと。違う価値観の相手をも「なるほど」と思わせる説得力とは別です。
 説得力は、色々なところに現れます。理屈による説得力を「論理的」と呼びますが、論理的であること以外にも「なるほど」と思わせる方法はあります。例えば、立場を利用するもの。これは職場でよく見られます。上司の言うことは、上司というだけで説得力があります。会社に入ってまもない社員が話す言葉より、その職場で何年も務めてきた者が話す言葉の方が、重みがあります。それから、見た目を利用する方法もあります。ヨレヨレのシャツ・ハーフパンツ・ビーチサンダルで日本の政治を語られるより、清潔感のあるスーツとしっかりと磨かれた革靴を履いて語られる方が説得力があります。けれど、立場や見た目を利用しての説得力は「論理的」なのではありません。

 論理的であること以外の説得力には欠点があります。それは、話す側と聞く側が、お互いに同じ価値観を共有していなければ説得できないことです。
 上司の話すことに説得力を感じるのは、その人が上司と分かっていて、上司というその立場に重みを感じている人です。たとえば校長先生の話には、その学校の先生方が特に説得力を感じるでしょう。説得力を感じるのは「この人は、この学校の校長先生だ」と認識していて、自分がその学校の影響下にあると分かっているから。その学校の先生でもない、その学校に自分の子どもが通っているわけでもない人には、いくら校長先生の話といえど説得力はありません。
 見た目に説得力が現れるのは、その見た目の格好良さを理解しているからです。若者向けのファッション誌を見てモデルを「格好いい」と思うのは、主に若者です。年配者は、どんなにそのモデルを眺めても理解できません。女性向けファッション誌を、男性も理解できません。女性の「こんな部屋に住みたい」を男性は理解できないでしょう。
 論理的であること以外の説得力は、お互いに価値観を共有していなければ分からないのです。

 以上が、炭治郎が非論理的である理由です。
 憎珀天の返答の理由を検証せず、自分の言いたいことを返した水かけ論だったこと。「人が人を助けることに何の理由がいる?」と、主張を理由で支えること自体を放棄したこと。「そんなことも分からないお前の方こそ鬼畜だろう。」と、なんの理由でも支えられていない独断を憎珀天に言い放ったこと。炭治郎は十分に非論理的なのです。

(3)論理とは愛である

論理学者の野矢茂樹氏は、著書「大人のための国語ゼミ」の中で、登場人物をとおして「論理とは愛である」というメッセージを述べています。

伝える。読み取る。語り合う。分かり合う。そのためには相手のことを考える。これすなわち愛!!

野矢茂樹「大人のための国語ゼミ」

 主張しただけでは伝わらないことがあります。もしもアナタと話し相手が、同じ価値観の持ち主だったら、主張しただけでお互いに納得する会話ができるのでしょう。けれど人間は、同じ価値観の持ち主ばかりではありません。育ってきた環境が一人ひとり違います。違う価値観の持ち主がなんと多いことか。私たちは生きていく中で、そんな違う価値観の持ち主に納得してもらわなければならない時もあるし、違う価値観の持ち主に納得してほしいときもあります。
「自分の考えていることを伝えたい。相手にわかってほしい。もっと知ってほしい。」
 その望みを叶える方法が論理です。理由をつけ、わかりやすく構成し、相手の質問に的確に答える。論理的であろうとする気持ちと、相手を思う愛の気持ちは「理解してほしい」という共通のものなのです。

 炭治郎には「理解してもらおう」という気持ちが欠けていた。つまり、愛がなかったのです。
 自分と同じ価値観を持つ者しか理解しようとしなかった。自分の考えを説明しようとしなかった。相手に納得してもらおうという配慮が足りなかった。
 炭治郎は、自分たちが正義で、鬼の方が悪人だと思っていたのでしょう。ところが鬼である憎珀天から「悪人ども」と言われた。さらに「弱き者をいたぶるから」と一見、真っ当な理由を言われ、返せなかった。相手に論理的に反論しにくいことを言われ、感情が高ぶるのはよくあることです。大正時代の戦闘シーンでなくとも、現代のビジネスシーンでも見られます。それどころか、本を読む限り古代ギリシャの時代にもあったことです。つまり炭治郎の失敗は、世代を超えて普遍性をもっているのです。いつどこの時代にも言える「愛」という言葉で言い表せます。憎珀天に対して「何の理由がいる?(理由なんか要らない)」と断罪した炭治郎はその瞬間に、論理的であろうとすることを、愛の気持ちを放棄したのです。

 というわけで「炭治郎に愛はなく、憎珀天は論理的だった」という話でした。
 憎珀天は炭治郎の問いに対し、わかりやすく的確に答えており、しかも論理構成がしっかりとしているから、論理的である。
 水かけ論をする者は非論理的であり、炭治郎は水かけ論をする。炭治郎は理由なしで主張のみを言い放つ。さらには理由によって主張に説得力を出すこと自体を放棄している。よって炭治郎は非論理的なのです。
 論理とは愛であり、炭治郎は非論理的である。よって炭治郎には愛がなかったのです。




参考

 マンガが挿絵になっているので楽しく読めます。マンガがあるだけでお硬い本が柔らかくなる。マンガってのは理解を促すのに力を発揮するものなんですね。4人のキャラクターにも愛着がわきます。


 著者の素顔が気になる本。感情を排し、機械人間になることを勧めているとも取れるような(言い過ぎか)内容です。どんな素顔の著者なのか。感情が効かない論理人間のイメージを持っています。

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