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哲学の考え方を観光振興に活かす その3キルケゴールの「関係性」


哲学は、そのものの魅力を発掘し観光商品にまで昇華させるに有効な考え方をいくつか生み出しています。
私が採り入れているのは、次の3つです。
1)エドモンド・フッサールの「相互主観性」
2)ヘーゲルの「止揚(アウフヘーベン)」
3)キルケゴールの「関係性」

第三回目の今回は、キルケゴールの「関係性」の考え方とその観光振興面での効果、そして実例をご紹介します。

いずれも大学時代に一哲学徒であった私なりの解釈ですから、詳細を正しく知られたい方は哲学の専門家などの解釈のほうを確認することをおすすめします。
★上の素敵な写真はキルケゴールが住んだまち、コペンハーゲン(デンマーク)です。浜の山ちゃんさんの画像をフリー写真素材(写真AC)から借用しました。

さて、実存主義という哲学のひとつの方法・考え方を作ったのがキルケゴールです。この「実存」とは、単に「存在する」「そこにある」ということではなく、もっと深い意味を持っています。それは、「そのもの自体が、真に納得するような形でそこにある」ということです。
ただし、この場で私がお伝えしておきたいのは、この「実存」についての説明ではなく、「実存」的な認識が、いかに、ものごとの問題解決に役に立つか、です。
実存とは、「その問題への自らの関係の仕方。そして、その問題へ関係している自らの関係性を見つめる自らの眼差し」を意識する、ということなのです。

キルケゴールは、彼の著作の中でもっとも多くの方に読まれた「死に至る病」の冒頭の文に一見奇妙で難解な書き出しをしています。実は私は大学の哲学科時代にこの意味を何度も咀嚼したのですが、結局はあまりわかりませんでした。
ですが、最近、ぐるっと西洋哲学の他の考え方を学んだり、自らが社会人になって30年も過ぎたあたりに知見がたまり、そして、ある方の翻訳に出会い、ついに理解ができたように思います。
ここで、その「岩波文庫」の斉藤信治様の訳でここに紹介しましょう。
以下転載
「人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である。すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、-それで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、綜合である。要する人間とは綜合である。綜合とは二つのものの間の関係である。しかこう考えただけでは、人間はいまだなんらの自己でもない。」
いかがでしたでしょうか?易しくはありませんよね。ですが、キルケゴールが言いたいこと、そして彼のこの考え方が、本人は意識したかどうかはわかりませんが、その後の哲学界に大きな影響を与えたのです。
この「関係性」という認識の仕方が、キルケゴールを祖とする実存主義の根幹になくてはならないものでした。この「関係性」という抽象的な形をはっきり認識して、その認識している自分が、「どう認識しているのか」という新たな関係性をも意識して・・・と果てしなく続くのです。

哲学から我々が学べるのは大きく分けて、「アウトプット」で学ぶ場合と、「プロセス」で学ぶ場合の2つがあります。ことキルケゴールに関しては、私たちは、彼の生涯をとりまく宗教的な問いに向かうのではなくて、ここでは、その難行を行うために彼が求め実践したスタンス(プロセス)である、「関係性を見つけ出し、自己、そして精神さらには人間に迫る」スタイルから学びたいと思います。

Aという要素、そしてBという要素。 2つあったとして、AとBの間にあると思われるものがふつう関係性です。
たとえば恋人同士などいいですね。
ふたりの友人のC君から見ると、二人は「恋愛関係」にあるのですが、実はA君とBさんはお互いを愛しているわけではなく、それを本人たちも知っているとしましょう。
だとすると、C君は、この2人を「恋愛関係」であると見ているのでありますが、なぜ、そう思っているのか?そこにC君と彼が考える「恋愛感」との関係性に着目できるのです。
C君は、自らと「自らが感じる「恋愛関係」というもの」との間に考えを巡らせるようになるといいのです。そこには、必ず「自ら=主観」が存在しますから、一見関係のないA君とBさんの関係が、どんどんと自己に引き寄せていけるのです。
かなり乱暴に説明してしまいましたが、言わんとすることはご理解いただけますでしょうか?
A君だけでは、関係性は生じず、Bさんが出現することではじめて、関係性1が生じる。そして、それをなんらかの「関係がある」と認めて定めることとなるのは、Cさんという人物を出します。しかし、そのC君も、A―Bの関係に注目していますが、それは、C-(A―Bの間の関係性)との関係性によって意味は幾重にも変わってくる、そういう話なのです。
キルケゴール本人のその後のアウトプットから大きく離れてしまいますが、私はここで、この「関係性」という認識が大切であることを述べたいと思います。

関係性とは、ある事象を「自分または人間」の方向に「ぐいっ」と引きつけることです。
そして、それができたら、その時はじめてすべての問題は「人間の問題」、解決することで、その関係性に両端にあるものごとに価値を提供することになります。
彼の哲学が、実存主義と言われる理由は、様々な問題と本人との関係性が存在するからに他ならないだと思います。(このあたりは、サルトルなど、後の実存主義哲学者の話のほうがわかりやすいかもしれません)。

では、この「関係性」を遡って見つめて行くプロセスで何が変わるのかをお伝えしましょう。
ずばり、それは、「解決すべき「真」の課題(=より自己および人間にとって価値の高い課題)の発見」につながるということです。

たとえば、お昼休みに近くのコンビニに立ち寄った時のこと。
早く飲み物を買って帰りたいのに、レジで行列ができているとします。
そして、そのためか、お客さんが少なくなってしまっているお店があったとします。
すぐ隣のテイクアウトのランチやさんのほうが手際がいいからです(笑)
さて、このコンビニのご主人は、何を課題とするでしょうか?
課題1 「レジが遅い」
このように人は、眼の前のわかりやすいことをまずは、課題として考えがちです。
以下、コンビニのご主人になったつもりで、自問自答をしてみます。
「しかし、でもレジが遅いのはなぜ課題なのか?」
「それは、レジが遅いと待っている時間が長くて、人が買い物をしない」
「では、なぜ待つ時間が長いと、人は買い物をしないのか?」
「それは、時間を浪費していると感じるからだ。貴重なランチタイムだし」
「では、なぜ時間を浪費していると感じるのでしょう?」
「それは、レジで並んでいる時間は退屈だったり、他にすることができないからだ」
「だとすると、レジで並んでいる時間が退屈じゃなくしたらどうでしょうか?」
こういうことになるのです。
そして 先の課題「レジが遅い」は、
「レジで並んでいる時間が退屈である」
と変わるのです。
最初の課題の主語は、お店の店員(オーナーから見た従業員に根拠する事実)です。
そして、自問自答した後の課題の主語は、「消費者」になっているのです。

この劇的な違いにより、その解決策がまったく変わってくるのです。
この「関係性」を掘り下げて掘り下げて、自分のほうに引きよせるということ、これが、キルケゴールの哲学的アプローチから学べます。
そう、結局は人間。そして課題の主語がその人間(ここでは消費者)にまでなったら、それはキルケゴールの「関係性」を踏まえたことで「解決すべき課題」にたどり着いたことになります。

さてそれでは、観光振興面で、実際にこの課題探索法をもとにして、ある課題を解決した例をお伝えします。

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