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短編小説『カンパリ・オレンジ』②(完)

「少し…苦いです…」
居酒屋で提供されるカンパリ・オレンジはもっとオレンジの味が鮮明で影からちらっと苦味が出てきたはず。

『オレンジを少量にしました。カンパリはハーブやスパイスが使われています。でも飲み進めるにつれて苦いと思っていたものが美味しいと感じるようになります。』

「それは、慣れてくるからですか?」

『それを後天味覚と言います。例えばわさびとかコーヒーだって子供の頃は苦手でも、大人になるにつれて美味しいって思うでしょう?』

「納得はしますけど、それをどうして私に?」

『私の意見ですので聞き流してもらっても結構ですが、貴方のような恋愛は最初は戸惑うものだと思うのです。理性が働いてね。でも慣れた時が危険。一番魅了な時間になって離れがたくなる。泣かされた時ももうやめようって思ったんじゃないですか?』

「思いましたよ。何度も。都合が悪くなったら行為だけはさっさと済ませてすぐにネクタイを締めていました。そして何もなかったかのように奥さんの元へ。こんな苦しい恋愛を続ける理由も分からなかった。でも隣で彼の寝息や肌を間近で感じるだけで幸せだった」

どの景色を切り取っても、悲しい部分が掻き消されて笑い合った日々だけが思い出される。
失恋直後は悪い部分は記憶抹消されるものなんだとこの歳にして実感した。

『でもね、貴方が今飲んでるカンパリ・オレンジは、恋愛と同様に癖になって離れられない苦味ですが、カクテル言葉では【自由】を意味します。』

自由…。
グラスに手を添えて改めて赤い液体を飲んだ。

『今はとても辛いと思いますが、今貴方は【自由】を手に入れています。もう彼の都合に合わせなくても良い。我慢しなくても良いんです。』

我慢…。

奥さんの元に帰らないで、と言えたら…。
そんなこと言えるはずもなくて、あの人に嫌われないように自分を押し殺していた。

「こんな私でも立ち直ることができるでしょうか。」

『もちろんです。時間はかかると思います。今はたくさん泣いて、たくさん食べて、たくさん寝る、そして、話題関係なくたくさん喋る。それだけで辛い時間を紛らわすことができます。貴方はもう自由なのですから誰からも咎められないのです。』

「もう一つだけ聞いてもいいですか?」
私が問うと、男は頷いた。

「最後の優しさを相手に残すのは執着なんでしょうか?未練なのでしょうか?最後まで良い女として覚えておいて欲しくて。それが私の願いなんです」

『うーん、両方じゃないでしょうか。でも残念ながら男はその優しさに気が付きません。婚外恋愛は家庭では満足できない部分や男としての威厳さを補う時間と私は捉えています。元から女性にだらしない男性もいるでしょうけど、大抵は日々仕事で頭を下げたりしているのに、奥さんには芯から癒してもらえない。だから自分にとって従順な女性を隣に座らせたいんです。』

「私は最後の最後まで彼を憎むことができませんでした。ただただ愛していました。」

『だから最後の優しさを残したのですよね。でもその優しさは貴方自身に向けなさい。苦しい思いさせた人に与えるものではない。』

私はついに顔を覆って泣き出してしまった。

『どの恋愛でも失恋を乗り越えるのはとても辛いです。辛くなったらまた私に会いにきてください。何とでも話し相手になります。』

男は目の前に私が頼んだお酒を置いた。

透明の液体の中にシュワシュワと上品な泡が氷に当たったり、水面に向かって消えていた。

同時に飲み終えたカンパリ・オレンジのグラスを引く。

『最初に貴方が注文されたジントニックです。まさに今の貴方に相応しいカクテルです。』

私は頷いてグラスを手に取る。
ひんやりと指先の芯が冷たくなった。

最後に男は続けた。

『カクテル言葉は【強い意志】です。貴方らしく希望を捨てないでください。きっと幸せになれます。』

そう言われ、私はここに来て初めて笑顔になれた。

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