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短編小説『思い出のハンバーグと出発のクレープ』②

『あっつ!』
『もう、冷まさないから火傷しちゃうよ』

あの人との何気ない光景。
私は前にもこのお店に恋人と来ていた。
その時に味わったハンバーグだった。

初めて訪れて、トマトが好きな彼は真っ先にこのトマトソースのチーズハンバーグにした。
私も同じのを頼んで、ここのお店の雰囲気良いよね、って話をした記憶がある。

忘れていたのに。

私はもう一口をナイフで切り分けて口に運ぶ。
うん、やっぱりあの時と同じ、この味だ。

一回しか食べていないはずなのに、味覚は鋭く覚えてしまっている。

今もそうだけど、ここのお店は温かみがあってほっとする。

実家に帰ってきたような安心感が醸し出されている。
『いつかこのお店のようなホッとする家に住みたいね』と微笑みながら口いっぱいにハンバーグを頬張っていた彼の笑顔を思い出す。

何が理由で別れたかあまり覚えてないけど、ハンバーグから漂ってる煙のように、ゆらゆらと彼との思い出が戻ってきた。

あの時のような優しい時間は取り戻せないけど、そんな時間もあったと懐かしさを感じられるくらいには、私も大人になったのだろうか。

若い頃は、吹っ切れたと思い込んでいた元恋人との思い出の場所に足を運んでみても、やっぱり忘れられないって涙しながら帰った夜もあったな。

知らないうちにそんな青い恋の思い出に未練も無くなって、新たに恋人ができて別れても、歳を重ねるごとに失恋後は冷静になる時間が早く来る。

良いような、少し寂しいような。

懐かしい記憶を思い出していたら、あっという間にハンバーグを食べ切ってしまった。

本当はもっと味わって食べたかったな。

振り返るとかなり混んできたので、お店を出ることにした。

少し歩いて消化させてからクレープ屋さんに行こうか迷ったけど、この勢いでお腹に甘いものを入れたかった。

行きと同じようにマップを開く。
クレープ屋さんはここから歩いてすぐのところにある。

のんびりと歩く時間すらなく、あっという間にクレープ屋さんに着いた。

やっと今日の目的地だ。

あの時の恋人とも、まず最初にハンバーグを食べてそれからクレープ屋さんに寄った。

当時と同じ順番で今の私がここにいる。

開くとギィっと扉が鳴った。
中に入ると『いらっしゃいませ』と、ふんわりとした白髪のおじいさんと従業員と思われる若い女性が出迎えてくれた。

店内に入ってキョロキョロしていると
『メニューはこちらです』と、女性が手を上に上げた。

白くて華奢な手の先には何種類かのクレープのメニューが絵で描かれていた。

定番の苺のクレープやチョコバナナからモンブランのクレープ、アップルパイのクレープとか珍しいものもあった。

私は、一番端に描かれていた「クリームブリュレのクレープ」を注文した。

『かしこまりました、奥の席でお待ちください』と席に案内してくれた。

あー、前もこの席に座ったなと、もう居るはずもない恋人の顔が浮かんできた。

今日はあの日の思い出を辿ってるみたいだ。
彼から『嬉しいとか悲しいとかもっと感情表現をしてくれる女性が好き』と、突然別れを切り出された。

大人になるにつれて、喜怒哀楽が乏しくなってきている。

泣いたりしても昔のように涙が出なくなったし、怒る体力とその後の周りのケアが面倒で、いつしか感情を表に出さなくなった。

今の方がうんと楽に生きれるのにどこか寂しい自分がいる。

店内は生地の甘い匂いと、砂糖の香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がってきた。

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