短編小説『青』
『今日、会社行きたくない』
今朝、電車の中で急に体が拒んだ。
人間関係は悪くないけど、時々しんどくなる。
ふと余裕がなくなる時がある。
上司には一言送って携帯を鞄に放り込む。
罪悪感はあったけど、
仕事するために生きてないから、今日は自分にとってのリフレッシュ休暇だと言い聞かす。
会社の最寄りで降りずに、
そのまま電車で過ごす。
30分もすれば海の見える駅に辿り着く。
今日は雲ひとつない青空だなと窓越しに眺めていたら、空よりも濃い青が見えてきた。
『海だ』
海が見えると潮の匂いが強くなってきた。
鼻が慣れない間は、潮の香りが鉄の匂いのように感じる。
アナウンスが流れて降りると、当たり前のように海が広がっている。
久しぶりに見たな、と駅を出て
目の前の海辺へ向かう。
海辺に着いてザッ、ザッ、と砂の音を鳴らしながら、波へと近づく。
少し屈んで目の前の青に手を伸ばす。
梅雨前もあって、手をつけるとかなりひんやりとした。
足をつけるのは諦めて、また歩き出す。
ベンチはなかったけど奥に公園へと繋がる階段があって、そこに向かう。
階段にも砂が残っていて足で払う。
ちょこんと座って海を眺める。
波の音はとても心地がいい。
動画投稿サイトで波の音を投稿している人もいるけど、音感だけじゃなくて、波風も感じないとヒーリング効果は無いと思う。
『まだここに居たいな』と、今日は1日休みにしたから何時まででも居れる。
同時に『ここを離れたくない』と気持ちが高くなる。
眺める時間が長いほど吸い込まれそうになる。
海から『まだここに居ていいんだよ』と、聞こえるはずもないメッセージが聞こえてくる。
家族や恋人といるよりも心が朗らかに過ごせている気がする。
何も考えなくて、ただ眺めているだけで安らかになってきた。
今までのことなんて、何とも思わないくらいに。
こんなにも安心できる場所はなかなか手に入らないだろう。
後ろから人の話し声が聞こえてきて、ハッと意識を取り戻す。
あれ、今自分は座っているはずなのに、階段をおりて柵越しに海を眺めていた。
さっきは座っていたのに、
いつの間にか、それも無意識に足が動いていた。
意識がもっと遠のいていたら、きっと青に飛び込んでいただろう。
急にブルっと体が震える。
私はここでは生きていけない。
海とは共存できない。
後ろに振り向いて歩いてきた道を戻る。
足を速めると海が遠のいていく。
『行かなくていいのに』とまだ呼ばれている。
「私はまだここに帰っちゃだめなんだ」と、海に向かって呟いた。
すると波が静かになった気がした。
また、またしんどくなったら来るから。
そう言い残して、駅に戻った。
電車が着く頃には、強く感じていた潮の匂いも何も感じなくなっていた。
『また来るね』ともう一度心の中で、海に向かって伝える。
『また明日から頑張ろう』と、
私は電車に乗り込んだ。
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