短編小説『カンパリ・オレンジ』①
最後の優しさを残す意味あるのかな。
『どうかされました?』
ハッと声が漏れていたことに気がつく。
目の前にいる白髭が目立つ男性のマスターに問われた。
マスターは手際よくカクテルを作っている。
「いえ、そんな深い意味では」と告げると、マスターと目が合った。
その視線がやけに強くて、私は先週のことをぽつりと話した。
「最後の優しさを残したばかりなんです」
マスターは目線を手元に戻し、何も言わず手の動きを止めないまま言葉を発した。
『最後の優しさを残す素敵な女性を振ったんですね。その相手は勿体無い』
勿体無い…か。
あの男にそう言ってやればよかったのかな。
「相手、結婚していたんです。最初から知ってたんですけど。仕事が上手くいかなくて落ち込んでいる時に優しくしてもらって…そこから関係持っちゃって…」
事実なのに口に出すと何て滑稽なのだろうと思う。ただのよくある不倫話ではないか。
『その内容からすると相手は会社の上司だったのですね。』
そうです、と私は頷いた。
マスターは『人はね、初対面、ましてやあまり顔を合わせる相手じゃない分、周りには言えないことを打ち明けることができます。そういう「知らない人」に対してだと自分に正直になって話せることだってありますよ。私は何も否定しませんから、好きなだけ吐いてください。無理にとは言いませんがね。』と続けた。
『一期一会の醍醐味です』と私の顔を見て微笑んだ。
このまま黙り込んで帰っても気が晴れないと思い、私は目の前の男に打ち明けた。
「付き合っている時も幸せだったけど、辛い時もありました。最後は結局相手の奥さんにバレて突然別れることになりました。それから相手からは何にも音沙汰なしです。会社でも私を避けるようになりました。もう居ても立っても居られなくて今日退職届を出してきました。昨日退職です。みっともないのは承知です。もちろん理由を問われましたが、正直なことなんて言えなかった。ただ体調不良が続いて迷惑をかけると理由をつけて退職になりました。」
目の前の景色がぼやけてきた。涙が止まらない。
「何であの時あの人を庇ったんだろう。退職を伝えた時も社内で何かあったか聞かれたんです。きっとバレてたと思うんです。不倫カップルって視線でわかるじゃないですか。だから、相手の立場も社会的地位も全て落としたらよかった。でも私にはそれができなかった。」
泣きじゃくる私の前に、マスターはオレンジの切り身が入ったお酒を置いた。
私が注文したのはこのお酒じゃないはず、と、涙目でマスターを見つめた。
『頼んでいたものも後で作ります。でも今はこのカンパリ・オレンジを飲んでください。これはサービスです。』
私は訳もわからないままグラスを持って、カンパリ・オレンジに口をつける。
ふわっと苦味のあるオレンジが舌の上に流れてきた。
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