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短編小説『アプリコットのサクサクパン』②(完)
私は一瞬固まった。
目の前の男の笑みがあまりにも柔らかくて綺麗で魅了されていた。
じっとするのもおかしいので、一瞬固まったのをバレないように手で探って小銭を出した。
何か答えなければいけないのかな、と、言葉を探すも見つからない。
「…じゃあ、気に入ったらまた買いにきます」とだけ呟いた。
『嬉しい、待ってますね。』
いつのまにかトレーの上にあったあんぱんとサクサクアプリコットが袋に入れられていた。
『僕だけしか働いていないので、いつでも来てください』
私はまた男を見てしまった。
「一人なんですか…?他の従業員は…」
『僕の店です。従業員雇うほどの余裕がないというか、仕事内の人間関係って煩わしくて好きじゃないんですよね』
ここのお店は男の城だった。
私はそれを知らずに開けてしまった。
「でも繁華街の中にあるから賑わうでしょう?パン屋さんはどこでだって人気だと思います」
『このお店知ってる人はわずかです。広告も出していないしSNSもしていない。たまたま通りかかって見つけてもらう程度で良いんです』
素敵な店構えなのにもったいないなと思う。
さらに男は続けた。
『偶然見つけて、味が良ければまた来てくれる。そういう縁を大切にしたいんですよね。本当に僕のパンを想ってくれているんだなと実感して』
男は一息つき、
『すみません、長々と。これじゃあパンを気に入ってもらうどころかただ単によく喋るオーナーと口コミに書かれちゃいますね』
宣伝はしないのに口コミは気にするところが可笑しくなり少し笑ってしまった。
「そんなこと書きません。けど、あなたが言うようにそういう縁を大切にしたいなと思いました。日々の中でそういうの見失いがちですもんね」
男も軽く笑い『そうですね』と、パンを入れた袋を渡してきた。
さっきの笑みとは違ってクシャッとした笑い方だった。
「ありがとうございます」と受け取り、出口に向かう。
重い扉を開けて出ようとしたら、
後ろから『気をつけて帰ってください』と声が聞こえた。
私は扉を閉める時に軽く会釈をして店を出た。
くるりと方向を変えて最寄りの駅まで向かう。
さすがにこの時期は肌寒いなと思いながら、手元の袋を漁る。
さっき買ったばかりのサクサクアプリコットを手に取ってビニールを剥いだ。
近くで見ると思ったよりも層が重なっていた。
1口目ではアプリコットまでたどり着けない。
まずは生地から齧ると、名前の通りサクサクで、口に入れた瞬間にホロホロと崩れていった。
少し甘めに作られていて、二口目にはアプリコットと一緒に食べることができた。
アプリコットの酸味と甘い生地が合わさることで舌の上で優しい味に変わる。
食べれば食べるほどアプリコットの果肉感が重みを増しているのも好きだ。
歩きながら食べると人に見られてしまうが、そんなのがどうでもいいくらい私は幸せに導かれた。
あんぱんも残っているけど、これは明日の朝にでも食べよう。
あの男が頭を過ぎる。
そういえば名札が胸元に付いていたのに、名前すら見ていなかったのを少し悔やむ。
会社から近いし、帰りじゃなくてもお昼にでも買いに行こう。
小さい出会いだったけど、きっと、この日が、かけがえのない『縁』になるのだと予感がした。
『また、会えるかな。』
夜になるにつれて風が冷たくなっていた。
私は、最寄りへと急ぐ。
背中には月が瞬いていた。
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