【エッセイ】上手くやろうとした瞬間、何も上手くいかなくなる

役者デビューしました。

普段からお世話になっている西本健太朗さんのワークショップ・ACT HOUSEに去年の10月から通っていて、その卒業公演という形で、つい先日、初舞台を踏んだ。
コントやら漫才やらで人前に出たことはあるが、本格的な芝居は初めて。
しかも主演だ。
2時間、ほぼ出ずっぱり。
膨大なセリフに加え、結構しっかりめのダンスシーンまである。
プレッシャーは、、、、、正直、全くなかった。
だって俺、もともと脚本家だし。
脚本家に「芝居が下手くそだ!」とか言われても、そりゃそうっしょ、て感じ。
トレーナーに「フードがついてないじゃん!!」って言ってるようなもん。
じゃあパーカーをどうぞって話。
どゆこと?

もともと、役者をやりたいというわけではなかった。
脚本や演出をやる上で、役者の気持ち、負担や苦労を知っておきたい、というのが参加の動機。
結論。
わりとムチャブリしても大丈夫だな、と思った。
ニシケンさんは本番当日の朝に平気でセリフを変更するし、結構シリアスな場面で「笑いを取れ」という鬼の指令を課してきた。
「嘘でしょ!?」と思う反面、「これはきっと期待の裏返しなんだ、、、!」という気持ちにもなった(そういうことでいいんですよね? ニシケンさん)。
真面目な話、同じ舞台を10回もやると、慣れが生じてきて、新鮮さが無くなってくる。
そういう中にあえてイレギュラーを入れ込むことで、緊張感を維持したまま千穐楽へ向かえる。
稽古期間も、本番中も、毎分毎秒、勉強になった。

2日目のソワレ(1日2回公演の2回目のこと)だったか。
僕は異様に緊張していた。
身内がたくさん観に来ていたのもあるし、まだ7公演も残っていて、体力的にやれるのかという不安もあった。
開演を待つ間、なんとか緊張を鎮めようと楽屋裏でソワソワしながら、ふとこんなことを思った。
——何をお前ごときが。
何を一丁前に、緊張なんかしているんだ?

緊張とは、「上手くやれるのか?」という不安の裏返しだ。
つまり「上手くやろうとしている」、ひいては「上手く見られたい」という感情の表れだ。
生意気な。
俺は役者ではない。ただの素人だ。
そんな素人が、座組の助けをいただき、時には迷惑もかけながら、なんとか舞台に立たせてもらっているんだ。
上手くやろうなんて考えず、ただ「役であること」に集中しろ。
「役じゃない時間」を無くしていけ。
パラパラ漫画と一緒で、動作から動作のコマ数が多ければ多いほど、動きは滑らかになる。
セリフとセリフの間、自分のターンじゃない時にも、常に意識を張り巡らせて、感情を動かし、リアクションを取る。
役のコマ数を増やしていく。
そうすることで「自分」の入り込む隙間がなくなる。
不思議な感覚だった。
役として舞台に立っているはずなのに、舞台上が一番「自分らしい自分」である気がした。
人からどう見られているとか、ダサいことしたくないとか、そういう煩悩を完全に排した、ただの自分。
なんだか笑えてきた。
力が抜けてきたからだ。
ただの自分でいることって、こんなにも力が抜けて、こんなにも楽なんだ。
技術があるわけでも、人を無条件に惹きつける何かを持ってるわけでもない。
ただ無我夢中で、今あるものだけで最大限勝負している等身大の自分が、そこにいた。
初めて、自分を好きになれた気がした。

もう、上手くやろうなんて考えなくなった。
芝居をする時も、脚本を書く時も、ただ人と会って話す時もそう。
ただ目の前のことに真摯であればいい。
そんな単純なことに気づくのに、28年もかかってしまった。
きっとこれからも、見栄を張ったり、見られ方を気にする自分も現れると思う。
でも今は、それもそれで自分だと、諦めて笑うことができる気がする。

長閑だけが取り柄で、いい所が見つからない村だと思ってました。
だから、嘘で魅力を作りました。
けど、間違ってしまいました。
気づいたんです。
魅力は、見えないだけでずっとそこにあったんです。

「未確認飛行物体を確認しました!」より一部抜粋

千穐楽。
クライマックスで、脚本家のガクカワサキさんが用意してくれた、宝物のようなセリフ。
苦楽を共にしてきた仲間たちを見ながら、僕は人目を憚らず涙を流していた。


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