見出し画像

【エッセイ】2016年の日記を見つけました

滅多に見ないフェイスブックにログインしたら、2016年に投稿した日記があったので、アンサーしてあげようと思います。
日付は9月14日。
この年の7月に縦隔気腫(肺に穴)で入院したので、いろんなことに一番モヤモヤしている時期です。
ちなみにアイコンは、中指を突き立てているエミネムの画像。虎の威を借りパクしていました。
それでは早速。

最近付き合う人間の中に、
「卑屈」と「傲慢」の二枚のカードしか持っていない者がいる。
それはまるで子供で、
「卑屈」=怒られないように大人しく振る舞う、自分を殺す
「傲慢」=感情のままに泣く、わめく、走り回る
つまり、0か100であって、グラデーションが存在しない。
人間は大人になる過程で、その「エース」と「キング」の間に広がる、様々な柄や数字のカードを手にしていく。
「相手が快く思うなら、多少自分に嘘をつこう」とか、
「時にはユーモアでその場を諌めよう」とか。
そうやって手札を増やして初めて、人間関係の中で楽しくゲームをすることができる。
それが人生だ、と解釈している。
つまり前述の人間は、ハナからゲームにすらなっていない。
手札を増やす作業を放棄したまま歳を重ねてしまったのだ。
そこには周りの環境や己の慢心など、様々な要素が混在しているように思う。
でも本人は、当然自分は周りと同じようにゲームに参加できているものだと信じ込んでいる。
だが、それは違う。
周りが「大人」だから、ゲームに参加してるように見せてくれているだけだ。
大人だってゲームを楽しみたい。
だから、その人間を省いてゲームに興じることだって当然だ。
しかし、「子供」はそれに気付かず、そのゲームにすら割って入ろうとする。
それを大人は指摘できない。
子供にそんなことを言うのは「大人げない」からだ。
誰かが、「あの子もゲームに入れるようにしてあげようよ」と言う。
すると誰かが言う。
「なんで俺らがそんなことまでしなきゃいけないの?」。
そうやって、ゴールのない我慢くらべが多発していく。
子供が大人になるのを見守るのは苦じゃない。
しかし、大人が大人になるのを見守るには我慢を要する。
「これだけのことを書いて人間関係にヒビが入らないか?」
大丈夫、子供はこんな文章を理解できるはずもない。

読みながら当時の記憶が蘇ってきて、若干の倦怠感を憶えました。

僕は大学で落語研究会に所属していて、ちょうどこの頃主将になりました。サークルにはここで書いているような、手札の少ない人間がたくさんいて、それをどう治めるのかという課題に直面していたのです。
結局僕は、何もできなかったと記憶しています。
もともと人見知りの個人主義者で、人に興味がなく、手札の少ない奴が迷惑かけていようが、誰かが迷惑を被っていようが知ったこっちゃないという人間だったので、「なぜ他人のことをここまで配慮しなきゃいけないんだろう?」と理不尽にも似た感情を持っていました。
そして面倒なことは全て同期に任せて、自分は定期ライブの漫才にのみ集中する。活動後の飲み会にも、数えるほどしか参加しませんでした。

今気付いたのですが、僕だって立派な「手札少ない人間」ですよね。
まるで自分がオトナ側で、さも手札が多くて悩んじゃってますみたいな書きっぷりですけど、僕も人付き合いに関して「面倒」と「気楽」の2枚しか持ってないんですよ。
でも周りの人達のご配慮のおかげで、なんとか人間関係の中に入れてもらっている。

最近特に思うんですが、「あ、俺コイツの人間関係からは淘汰されてるな」って気付く瞬間あるじゃないですか。
別に嫌なことしてくるとかじゃなくて、返事の素っ気なさとか視線の逸らし方とかで。
「大事じゃない人フォルダ」に入れられてる感じっていうか。
僕もさんざん人を「大事じゃない人フォルダ」に入れて、いっぱいになったら全部空にしたりしてきました。でも最近、それをされるとすごい寂しいんだなって思うようになりました。
だから、すごく人と話すようになりました。
選別してるなんて意識すらなかったけど、人に「選ばれない」ことは「認められない」、ひいては「愛されない」と同義ですよね。
目に入る全てに慈悲の御心を、なんてことは言えませんけど、せめて会話を交わす人に対しては最低限の愛を持つべきなんだと、深く反省しました。

「俺のボケなんて、ウケてもスベっても6秒後にはみんな忘れてる」。
これ、最近僕が手に入れた手札です。

(完)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?