【エッセイ】人はなぜ、物語に惹かれるのか

こないだドトールで作業している時、iQOSにタバコ(ブレード)を入れた瞬間、ポキッとふたつに折れた。
これはiQOSユーザーにとって「死」を意味する。

「死」の図

つまり、この僅かにはみ出しているペーパーの部分を爪でつまみながら、ゆっくり繊細に引き上げないといけない。
少しでも力の入れ方を間違えれば、ペーパーが破れてつまむ場所を失ったり、余った指でさらに奥へと押し込んでしまったりする。
ちなみに、これを取り終えた後の一服が一番美味いことは、言うまでもない。
来店して30分。
まだ1ページも書いてない。
コーヒーも飲み切ってない。
ピンセットを取りに帰れば、もう一杯コーヒーを頼むハメになる。
俺が月9でも書いていれば話は別だけど、なるべくなら金は使いたくない。
何より、帰るのはめんどい。
ここで決着をつける。
覚悟を決め、切りたての爪でブレードの摘出を試みる。
すると、オペに集中するあまり、払った手がコーヒーのカップを倒した。
「ガチャン!」という、およそ昼下がりの喫茶店に相応しくない爆音が響く。
普通に思う。
「最近、ツイてないなぁ、、、」
昨日は銭湯で傘を盗まれたばかりだった。
だが、テーブルにぶちまけた氷を拭きながら、ふと思った。
iQOSが折れたこととカップを倒したこと、また銭湯で傘を盗まれたことは、厳密には全く関係ない。
確かにiQOSが折れてなければカップを倒すこともなかったかもしれないが、一括りにするには関連が薄い。
iQOSが折れる→壊れて吸えなくなる、だったらまだ分かる。
ちゃんとそこに因果がある。
でも、脈絡のない不運たちを無理やり括って「最近ツイてないなぁ、、」と落胆するのは、いささか早計な気がした。

前に読んだ本で、人々はなぜ”物語”に惹かれるのか?ということが書いてあった。
人間の一生は、常に脈絡のない出来事の連続。
ウィル・スミスみたいに、人生で初めてオスカーを獲ったその日に、人をぶん殴っていたりする。
最良の瞬間と最悪の瞬間が同時に訪れることも、普通にある。
だからこそ人は「脈絡のある出来事の連続」である物語に、癒しを求めるのだという。
努力が実を結んで何かを成し遂げたり、一見関係のない出来事が伏線となって回収されたり。
それは、我々の人生が必ずしもそうじゃないからこそ感動でき、また癒されるらしい。
実際の人生なら、牢屋の壁を掘り進めていってもショーシャンクの外には出られないかもしれないし、
ヒルバレーの時計台に募金を呼びかけるチラシを、貰った瞬間ゴミ箱に捨てているかもしれない。
というか、その確率の方が高い。
つまり、人生では滅多に果たされない因果の集合体こそが物語なのであって、
逆に言えば、人生に物語のような因果を求めること自体が間違っているといえる。

「ゲームばっかりやってるとバカになるよ!」と言われていた時代があるように、その昔は「物語ばっかり読んでるとバカになるよ!」と言われていたらしい。
確かにそうかもしれない。
物語に魅力的な因果を見せられまくった結果、我々は自分の人生にもついつい因果を探してしまっている。
人生は不平等で理不尽で、因果もクソもない。
努力は叶わないし、辻褄は合わない。
だからこそ、無理やり不運を一括りにする必要もない。
iQOSが折れるのもカップを倒すのもただの偶然で、そこに何の意味もない。
落ち込むことはない。
ちなみに、ブレードを取り終えた後の一服が一番美味かったことは、言うまでもない。
この因果だけはガチ。


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