【エッセイ】行儀なんて知らなければ、俺だってクチャクチャ言わせながら飯が食えた

小さい頃、家族で回転寿司へ行った。
目の前を踊るように回る寿司たちは、さながら「パルプフィクション」のトラボルタとユマサーマンに見えた。
あれは俺にとってツイストだった。
瞬時に心躍った俺は、来るもの拒まずの精神で寿司をどんどん回収し、バクバク食べた。
するとすかさず、母親からの指導が入る。
箸の持ち方が汚い、逆の手をお皿に添えなさい、落ち着いて食べなさい——。
幸せな食事に水を注されて、俺の食欲は急激に減退した。
ふと見ると、隣の席も家族連れで、俺と同い歳ぐらいの女の子がいた。
椅子に立ち上がって、レーンに首を突っ込んで、絶叫して、やりたい放題だった。
親はそれを注意するどころか、同調ないし煽動するかのように笑っていた。
ロックだ、と思った。
と同時に、俺はなんてロックじゃないんだ、と絶望した。

昔から、行儀については口酸っぱく指導を受けてきた。
おかげでサンマを食う時は綺麗に骨だけを残せるし、ナイフとフォークを置くべき所定の位置も知っている。
両親の言い分としては、社会に出た時に困るから、だそうだ。
それは間違いない。
上司との食事で犬食いでもしようものなら、仕事の出来に関わらず評価はダダ下がりだ。
それを回避させようとしてくれたことには、大いに感謝している。
だが社会に出てみると(厳密には出てないんだけど)、どうやら行儀の良い人間と悪い人間の間には、暗くて深い溝があることが分かってくる。
極端な話、人間は行儀の良い人間と悪い人間の2種類に分けられる。
行儀の良い人間は良い人間としかつるまないし、悪い人間は悪い人間同士で仲良くなる。
つまり社会という受け皿の中で、両者はハッキリと隔絶した人生を送っている。
だから別に、行儀が良かろうが悪かろうが、生きていくことはできる。

では、どちらの方が得なのか?
答えは簡単、悪い人間だ。
そして、皮肉でもなんでもなく、俺は行儀の悪い人間に心底憧れている。

隣の席でクチャクチャ飯食ってる奴がいると、嫌な気分になる。
それは、クチャクチャ飯食うのが行儀の悪いことだと知ってしまっているから。
逆に、当のクチャラー本人はというと、とても美味しそうに飯を食っている。
つまり行儀の良い人間だけが、行儀の悪さを気にする人生を送るハメになる。
だとしたら、どんなに行儀の良い人間から蔑まれていようと、クチャクチャ飯食える人生の方が幸せなんじゃないかと思ってしまう。
クチャクチャ飯食って、クチャクチャ飯食う女と結婚して、クチャクチャ飯食うガキが生まれて、それでも難なく生きていける。
むしろ食事中の会話も弾んで、さぞ家庭も円満なことだろう。
行儀を気にするばっかりに人を減点法で見る癖がついて、本当に心許せる人間と滅多に出逢えないのと、どちらが幸せかは明白だ。
アイツらは優先席にだって座れるし、マスクをしないで街を歩ける。
最高の人生だ。
サンマを綺麗に食ったところで、誰に褒められることもない。
ナイフとフォークをちゃんと置いたところで、飯の味は変わらない。
行儀の良い人間だけが、社会からセロトニンを搾取されて、貧相で生きづらい人生を送っている。
なんだこれ。
俺もクチャクチャ飯食ってやろうかな。
回転寿司のレーンに首突っ込んで、絶叫して、俺という存在を証明してやろうかな——。

でもそれはしない。
なぜなら、俺にはクチャクチャ飯を食わない大切な人たちがたくさんいるからである。

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