【エッセイ】右へ倣えの教育をしてくれてるから、逆張りするだけで個性になるのに

脚本家は孤独だ。
職業柄、横の繋がりがほとんどない。
ひとり大好き人間の自分としては最高だけど、ひとり大好き人間でも孤独を感じるのだから、よっぽど孤独な職業なんだと思う。
だから、たまに脚本家と出会うとすごく嬉しい。
孤独と同等か、それ以上に感じる弊害は、個性が出しづらいこと。
たとえば脚本家が30人集まったクラスがあるとして、その中で個性を出すのは簡単だ。
誰もやっていないこと、すなわち逆張りをすればいい。
作品にしたってそうだし、ファッションとかキャラクターとか、パーソナルな部分でもそう。
周りが体現している脚本家像の逆を突いた瞬間、それは個性になる。
早い話が、目立てる。

つまり個性とは、逆張りの連続。
絶対的な個性なんてないし、あくまでも他人との相対視によって生まれるものだ。
クラスで浮いてるヤンキーが居たとしても、鈴蘭高校に入ればそれは普通になる。
鈴蘭高校でガリ勉な方がよっぽど個性になる。
何か限定されたコミュニティの中で、逆張りを繰り返すこと。これが個性の正体。
「個性がない」と悩んで自分の殻に閉じこもるぐらいなら、さっさと人の中に入って逆張りしまくる方が何倍も良い。
ただ難しいのが、無闇やたらと逆張りをしていればいいというわけではない。
そいつはただ嫌われる。
嫌われると「個性」は「独特」とかに言い換えられて、揶揄の対象になる。
逆張りだとバレない程度に、逆張りを繰り返す。このバランス感覚が非常に大事。
愛されていなければ、それは個性とは言えない。

「個性を伸ばすと掲げておきながら、日本は右へ倣えの教育をしているじゃないか!」
と言う人がいる。
じゃあマジで個性を伸ばす教育をしたら、個性的な奴なんて一人も居なくなるだろ、と思う。
右へ倣えの教育のもと、周りが右に倣ってくれているから、左を向くだけで個性になるのだ。
そもそも出る杭を打ちたがる国民性なんだから、個性を伸ばそうとしたところで杭になることを恐れ、自ら埋もれていくに決まってる。
だからモグラ叩きのように、出すぎず出なさすぎず、たまにひょこっと出るぐらいの杭がちょうど良い。
叩こうとしたとき、そこにはもう居ない。
今のは残像だよ——。

まとめると、周りに無個性でつまんない奴を30人ぐらい置いて、ひたすら逆張りして一目置かれたいということだ。
そうやって即席の優越感に浸って、心の欠損を埋めたい。
だが幸か不幸か、自分の周りには個性豊かな人々が揃ってしまっている。
みんないつもありがとう。
これからいくつになっても、社会に中指立てて逆張りしていこうね。
Forever…

と、ここまでエッセイを書き終えてパソコンを閉じた途端、ある考えが浮かんだ。

「個性とは相対的なものである」という考えそのものが既に逆張りだった場合、真実はその逆、つまり「個性とは絶対的なもの」ということになるんじゃないか……?

——ま、どっちでもいいや。
とにかく、逆張りできたんで、帰りまーす。
あらざしたー。


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