【短篇小説】ガム

味の多い生涯を送ってきました。

と言っても、毎晩フルコースを嗜むような貴族の家の者ではありません。

むしろ母は、父の身体を心配して塩の少ない料理を出していました。

我が家の筑前煮は、茶色よりもむしろ素材本来の色が主張し合って、目にも鮮やかだったと記憶しています。

私の舌が、鋭すぎたのです。

と言っても、蛇の舌先を想像してはいけません。

鋭いのは形状ではなく、私の舌に張り巡らされた味蕾です。

私の味蕾は、3月下旬の桜です。

今にも花開かんとしています。

ちょうどこのベンチから見える、あの桜と同じぐらいでしょうか。

桜って、実は開花する前の方が濃いピンクをしています。

あのピンクが、一点にギュッと凝縮されているのですから、無理もありません。

だから、ちょうどあれぐらいなのです。

私の味蕾は、どんなに薄い粥の中からも味を見つけ出して、私を翻弄します。

今、そんなに味、いらない。

何度そう思ったことでしょう。

そう願えば願うほど、私の味蕾はよく働いて、有り難がれと言わんばかりに味を拾ってくるのでした。

だから私は、ガムが好きでした。

ガムには、途中で味を消すという素晴らしい機能があります。

味をやめてくれるのです。

無論、味の消え去った後のガムからも、私の味蕾は味を探知するのですが、

要は気持ちの問題です。

味は消えたのだと向こうから提示してくれるなら、私はそれに準ずるのみ。

ペッと吐き出し、さようなら。

なんて潔い関係なんでしょう。

そのうち私は、ガムしか口にしなくなりました。

スルメなんてのは地獄でした。

噛めば噛むほど、味が熱波のごとく押し寄せて、私を襲います。

死んでいるイカに対して、死ねと思いました。

私にとって全ての食べ物は、ガムが優れていることを証明するための根拠でしかありません。

特に好きなガムがありました。

それはいつも、駄菓子屋さんの隅で私を待っていました。

全部同じ味なのにわざわざ色とりどりで、10円玉を入れてレバーを捻る手間まで加えられていました。

ガムのくせに、人を楽しませようとしているその精神が、可愛くて仕方ありませんでした。

たかだか10円のガムはすぐに味を失って、私を味覚の呪縛から解放してくれました。

私は猿のように何度もレバーを捻って、ガムを愉しんでいました。

そのうち、そのガムは私の前から居なくなりました。

というか、駄菓子屋さんごと消えてなくなりました。

私は人目もはばからずに慟哭して、ガムを悼みました。

それから私は、彼の手がかりをインターネットに見出そうとしました。

すると、現実は残酷でした。

彼どころか、ガムというそのものが、この世の隅に追いやられていることが分かりました。

スマートフォンが普及して、誰もが容易に暇を潰せるようになったこと。

そのせいで、人は待ち合わせの時にガムを噛まなくなったというのです。

スマートフォン。

あんなに味の多いもの、鬱陶しくて噛んでいられません。

人の味蕾を化学調味料で嘲りまくった挙句、何事もなかったかのように消えていく。

私はそんなガムが大好きでした。

だから今も、こうしてガムを噛んでいます。

花開く寸前の、一番美しい桜を見ながら、ガムを噛んでいます。

ここで私は、欲をかいてしまいました。

彼を膨らましてみたくなったのです。

今までは味が無くなればすぐに吐き出していたのですが、

どうやらこれを上手くやると、風船が出来上がるらしいのです。

私は口の中で、味のなくなったガムを広げました。

やがてそれは、私の舌全体に纏わりついてきました。

味のないガムに舌を束縛されて、私はむず痒い気持ちになりました。

そして、ひと思いに息を込めていきます。

ぷ〜っと間抜けな音を立てながら、ガムはみるみるうちに膨らんでいきます。

やがて、私の身体が宙に浮き上がりました。

今までにない心地でした。

眼前にあった景色が、たちまちジオラマのように小さくなっていき、

それに比例して、鬱陶しいほど鮮やかだった世界に、少しずつ靄がかかっていきました。

すると突然、頭上で轟音が鳴って、私の身体は急降下を始めました。

色が、どんどん戻ってきました。

私は何度も、割れた風船に息を込めます。

しかし、もう二度と膨らむことはありません。

返ってくるのは、少し砂糖がかった味の、自分の息だけです。

萎む風船とは反対に、世界がどんどん膨らんできました。

このまま飲み込まれたいと思い、私は目を瞑りました。

でも世界は、私を拒絶しました。

全然知らない街の、とびきり固いコンクリートで、私を弾き返しました。

どれだけの口車で、私という存在を何かに喩えたとしても、

死だけは、ありありとそこにありました。

やがて、私の味は無くなりました。

私自身が、この世界に噛み殺されたガムなのでした。

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