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明治維新には歪んだ力も含まれていた

明治維新は、僕がとても大事にしている歴史イベントです。そして明治の人々の努力や創意を、大変尊敬しています。ただし、廃仏毀釈だけはよろしくない、と考えていました。本書にもありますが、タリバンが、海外にてバーミヤンの磨崖仏を爆破した、あの時に抱いた嫌悪感を、本件でも歴史の授業で学んだ時に感じていました。なぜ明治政府は、そんな極端な政策を採ったのでしょうか。
※背景画像は、廃仏毀釈の傷跡とされる一例です。本文中にリンクあり。

「廃仏毀釈」は明治政府のせいではなかった?

本書によると、江戸時代には9万寺あったと言われます。それが明治初期で半減しました。これを政府の弾圧の結果と理解していたのですが、実際は違うようです。明治政府が目指したのは、神仏の切り分けです。神仏分離令と呼ばれる布告が、断続的に出されました。神社に祀られていた仏像・仏具が排斥され、神社に従事していた僧侶に還俗を迫り、葬式も神葬祭への切り替えを促しました。ここまでなら、江戸期、あまりに混じりすぎていた仏教と神道を分離させたにすぎません。しかし、実態は各地にて、勝手ばらばらに過激化していったようです。たとえばそれは、比叡山の事例を見ると少し分かります。江戸時代の寺院は、麓の日吉大社を支配する関係にありました。明治になったことを機に、従来虐げられていた神官らが、暴力的に僧侶を追い出しました。この事件を発端に、「廃仏」が日本中に広まってしまったようです。廃仏毀釈で先行したのは鹿児島県(薩摩藩)です。名君・島津斉彬が主導しました。狙いは、寺院が抱え込んでいる金属の徴収でした。もともと薩摩藩では、贋金作り盛ん。寺院の金属が使われ、かつ徹底していました。明治に入ると、県内の寺院数はついにゼロ。島津家の菩提寺も廃寺とされました。今日、鹿児島県の寺院数が、全国一多い愛知県の十分の一しかないのも頷けます。幕末薩摩の廃寺政策が、今なお尾を引いていたのです。

各地で次々と起こる、仏への破壊行為

一方、明治政府の足元・東京では冷静な対応がなされていました。寺の破壊事例はそれほど多くはありません。1872年学制が発布されると、寺院の跡地に学校が建てられました。国家の近代化が進む中、常時、予算不足に苦しんでいた政府は、寺院の力を弱めつつ、その資産を活用するのが一石二鳥だったのです。法律としては「上知令」が出されました。これは、全国寺院の膨大な土地を没収するための根拠法です。廃仏毀釈の流れは、これによって「政府ぐるみ」となりました。では、当時、仏教の中心地だった奈良や京都はどうでしょう。様相はもっと深刻でした。国宝を多数有する奈良の興福寺は、かつて春日大社を支配下にし、知行地が2.1万石あったとされます。しかし、廃仏毀釈によって、寺領内の多くの堂塔は破却処分となりました。警察の屯所となった金塔では、暖を取るために天平時代の仏像が引きずり出されたとも言います。また、五重塔が一時売却されかけたそうです。さらに、興福寺と言えばシカですが、あっさり狩られてスキヤキにされました。「神の使い」のはずでしたが、人々の心変わりは恐ろしいものです。幕末で都のあった京都。お盆のハイライトが「五山の送り火」です。こうした仏教的行事の多くは中止になりました。また京都は、路地を歩けば、地蔵を祀った祠がすぐに見つかるくらい、地蔵信仰に厚い土地柄ですが、これも撤去などの要請が出されました。当時の京都府令では次のように書かれています。「市内の各町内の路傍における地蔵や大日如来像などは無益で、怪しく、人を惑わすものであるから、早々に撤去するようにと命じた」と。そして「夏の蒸し暑いさなか、地蔵盆などで地域住民が集まって飲食しては、食中毒になりかねない。送り火と称して無駄な焚き火をし、ほかの仏事もまったく科学的根拠もない迷信だから今後は一切、禁止にする」と続きます。この府令では、神社の行事は科学的根拠があって、仏教はないと言っているようなものです。京都の街はこれらの府令に加え、東京遷都によって大打撃を受けていました。市の人口は、一時、江戸末期の半分近くにまで激減したようです。ちなみに、かつての天皇家は熱心な仏教徒でした。その葬儀も仏式でした。ところが、その仏教色は、宮中から徹底的に排除されました。日本独特の「神仏習合」は一時壊滅の縁にまで追いやられてしまったのです。

神道が仏にすがり、武家社会も仏に頼った

そもそも日本の神仏習合思想は、天皇家が仏教に帰依し、国家宗教に組み入れられる形で繁栄してきたものです。平安時代、本地垂迹説なる考え方が生まれ、日本の神々は仏菩薩が化身としてこの世に現れた姿だとされました。たとえば天照大神は大日如来が本地、八幡神は阿弥陀如来という具合です。仏教はその後、武家社会に庇護され、江戸時代になるとキリシタン禁制を目的にした檀家制度によって、ムラ社会における確固たる地位を築きました。これはつまり、今日につながる戸籍制度の始まりです。ムラ人すべてを寺院の檀家とし、彼らの個人情報を「宗旨人別改帳」にて管理しました。気づけば、仏教は、幕府の支配体制の中に組み入れられ、神道との立場を逆転させていたのです。しかし興味深いのは、17世紀に入ってからの、国学の誕生でした。『古事記』『日本書紀』などの古典研究を基にして、仏教は外来宗教と位置づけられました。それを主導したのが、江戸幕府の御三家のひとつ・水戸藩です。あの、水戸黄門と呼ばれている徳川光圀(第二代藩主)の時代、すでに寺院を整理削減させていく動きに出ています。当時、図に乗る寺院が次々に建てられ、僧侶の数も増えてしまいました。また、庶民が通う密教系の宗派も登場しました。増えていく一方の寺院に対して、幕末の徳川斉昭(第九代)は、鉄槌を下します。金属供出を目的にした大々的な廃寺を行ったのです。国防重視を打ち出していた水戸藩としては、大砲鋳造のための原材料集めという側面がありました。ただ実際には、戒名売買や手抜き葬儀などを行う寺院に対してお灸をすえる目的もあったようです。こうした宗教改革を通して、体制強化を目指したのだとも言われます。斉昭の大寺院の破却は、幕府をも驚かせるかなり過激な措置でした。ではなぜ水戸藩は、仏教を目の敵にしたのでしょうか。

尊王論の誕生

幕末の思想をリードした水戸藩の存在

水戸藩には、大日本史の編纂事業以来、徐々にできあがってきた学問の基礎がありました。この国がどこから来たのか、権力の正当性を解き明かそうとした学問です。儒学者が、特に朱子学の考えをベースにし、「尊王」という概念が根底に据えられます。この場合、王とは天皇を指します。礼儀に始まり、秩序を重んじるその教えは、統治者の引き締めにも用いられたようです。そんな教えに学ぶ人々が、権力と結びついて堕落する仏教を批判し始めました。これに呼応したのが、神道の一派です。仏教に対抗することを考えていました。さらに、新興勢力である国学者が加わります。ここのグループがのちに、明治維新の思想的柱となっていきます。そして攘夷派。すなわち外国勢力を追い払って、祖国の防衛を尊王のもとで成し遂げようとします。こうして、幕末期の日本は、「尊皇攘夷」の過激思想にリードされながら、仏教排斥や打倒幕府の機運が一気に持ち上がるのです。薩摩藩の仏教排斥も、水戸藩から広まったものでした。水戸藩で誕生した学問が、とてつもない力をもって、人々を戦へと駆り立てる様は、その後の明治政府にまで大きな影響力を及ぼしたと言えます。

廃仏毀釈

そろそろまとめに入りましょう。廃仏毀釈そのものは、1876年(明治9年)には収束しているとされています。実際、信教の自由が発表されて以降、仏教を完全に排除するわけにはいかなくなったのです。また、廃寺の数からも分かる通り、寺院数は適正数に落ち着き、仏教界の綱紀粛正にもつながったと言われます。明治期の粛清がなければ、寺院改革は進まなかったかもしれません。しかし、貴重な文化財が多数失われたことも事実です。歴史の記憶として、プラスもマイナスもしっかり僕たちの心に刻みつけておくことが、今日につながる日本人の宗教事情を理解する上で重要な作業になりそうです。



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