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戦前の昭和はなぜ破滅へと向かったのか

日本には元号があり、それによって時代の節目を僕たちは意識するようになります。しかし、日本の元号とは純粋に、施政者が新しい時代の始まりを告げるために改名してきたにすぎず、歴史的に、呼称以上の大きな意味をもつものでもありませんでした。それでも僕たち庶民は、元号になぞらえて時代を読み解くのが大好きです。たとえば平成は、後バブル期の「失われた30年」という暗い時代のイメージを残したまま、令和に引き継がれました。令和には、新しい時代への期待がかかっています。振り返ってみると、そのひとつ前の平成の頃が、大正時代に似ています。大震災(関東、阪神淡路、東日本)を経験し、リーマンショック(戦後不況)が直撃し、それでも着実に都心部の(再)開発が始まった時代。庶民の生活は静かに、大きく変わり始めていました。大正では都市化、平成ではネット化が大きく進行。本書の内容はここからです。大正の次には昭和、平成の次には令和。今後の令和を占う上で、昭和を振り返ってみるのはそれなりに意味のあることだと思います。
※冒頭画像は、本テーマにおいて、非常に有意義なNHKスペシャルの番組『 日本人はなぜ戦争へと向かったのか』から借用。そのリンクは末尾に。

昭和の幕開けは、暗くて混沌とした時代

昭和とは、金融恐慌の中、幕を開けました。ここにアメリカ発の世界恐慌も加わり、経済はどん底に突き落とされました。しかし助け船が出されたのもアメリカでした。日本経済はその後、少しずつ、アメリカへの依存を強めるようになっていきます。対米依存というのは、戦前(第二次世界大戦前)から始まっていたのですね。歴史を学ぶとは、こうして、その事象の裏をしっかり掘り起こし、見ていくことでもあります。もうひとつ挙げておきましょう。この頃、大正デモクラシーの余韻を受けて、労働争議の多発や共産主義思想の芽生えが、市中で顕著になっていました。政党政治に舵を切りかけていた日本にとって、共産党の台頭は無視できないものです。そこで「天下の悪法」と呼ばれる治安維持法が制定します。ここでよく考えていただきたいのですが、同法は(意外なことに)大正末期に成立し、昭和初期に修正強化されたものでした。軍国主義へとひた走る象徴のように思われていた同法ですが、当時の人々にとっては社会不安を抑えるための「テロ対策防止法」のような位置づけだったようです。

大正デモクラシーからの民主主義の結実:濱口内閣

昭和の研究で一番のハイライトは、なぜ日本が戦争への道に転がり落ちたのか、です。戦勝国として世界的な地位も獲得し、二大政党制にも至った昭和初期の日本。「ライオン宰相」として人気の高かった濱口内閣が、緊縮財政を掲げ総選挙を勝ち抜き(昭和5年=1930年)、日本の民度が高いことをはっきり示しました。濱口首相は民政党です。財政規律の改善を掲げ、軍縮条約調印の言い訳をしながら軍事費にも切り込みました。これは画期的なことです。どちらかと言えば、甘い(財政拡大)政策を掲げていた政友会と対峙しましたが、国民は濱口を選びました。謹厳実直・質素倹約の同氏の人柄が支持された結果です。しかしその濱口首相が右翼の凶弾に倒れます。軍国主義日本の暗雲がたれこみ始めたと評される出来事です。翌年には満州事変も起こりますのでその理解は間違いではないのでしょう。ただし、戦前民主主義の結実点として濱口内閣の時代を前向きに見るのも歴史の正しい見方だと思います。

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満州は日本の生命線ではなく、陸軍の植民地

さて、満州事変にて書き始められる軍国主義ですが、実際はどうだったのでしょうか。この頃の満州における日本の権益とは、旅順・大連という猫の額ほどの小さな土地と、南満州鉄道の細長く伸びる付属地だけでした。そこを守備する目的で陸軍の関東軍が置かれ、「満蒙は日本の生命線」と言われたのです。いささか大げさです。なぜなら、隣の中国本土では蒋介石が国内を統一し、巨大な市場への期待を膨らませている時期でした。満蒙から得られる利益より、中国本土と貿易をした方が儲かる。それが常識的な判断でしょう。しかし、戦端の開かれた満州には、当時日本の領土だった朝鮮からの軍が加勢し、占領地をどんどん拡大していきます。皮肉なことに、日本政府は非拡大を唱えて国際社会に説明しつつ、軍部を動かし侵略を開始していた。世界はそう理解していました。

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選挙が、政治の失望と軍部の暴走を促した

軍が暴走を始めてからも、日本では選挙制度が維持されていました。総選挙の焦点は経済対策です。政友会の犬養毅は積極財政に転じることを約束し、民政党から政権を奪いました。この時、満州事変のことはほとんど触れられていませんでした。しかし昭和6年(1932年)3月、あろうかことか、陸軍が勝手に満州国を建設。新聞メディアはこぞって、政党政治を批判し、その軍部を称賛しました。同年5月、一部の軍人による犬養毅等政府要人の暗殺テロが起こります。世にいう「五・一五事件」です。ここでも実行犯に対しては助命嘆願運動が起こり、田舎から出てきて祖国に仕える青年将校たちに同情の声が集まりました。同年9月、世論の動きに背中を押されるカタチで、政友会・民政党の与野党双方ともが満州国を承認。軍部の発言力がますます強くなっていきました。もし、僕たちが昭和史にさらなる検証を迫るとしたら、実はここからです。選挙はこの後も続きました。軍人宰相が続いても、軍部はまだ内閣を掌握していません。政友会の高橋是清が積極財政で景気を立て直したこともあり、社会の空気は徐々に変わっているところでした。日本にはまだ戦争へのブレーキをかける機会があったのです。それなのに一転、どのような展開が日本を破滅へと向かわせたのでしょうか。

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国連に戻らず、意固地になった日本

もし、日本が戦争を回避できたとしたら、ひとつの機会は国連残留でした。満州国に関するリットン調査団の報告がまとめられ、日本は国連脱退に追い込まれます。昭和8年(1934年)のことでした。日本が先に脱退宣言を行い、国連からは脱退勧告がなされました。しかし、まだ国連に残留するための時間的余裕が2年もありました。勧告はあくまで勧告であって、実際の効力ではなかったのです。しかも、中国に同様の権益をもつイギリス、さらにはチェコスロバキアなど、仲介役となりえる国かありました。もっと興味深いのは、脱退宣言から3ヶ月後に行われたロンドン世界経済会議では、日本もこれに参加し、アメリカとも共同歩調を取っていたこと。つまり、世界の枠組みにかろうじて日本もとどまっていたのです。満洲では、日本も中国と停戦協定を結びました。この時点の日本なら、国際社会と対話する余地はあったと考えていいでしょう。ただ、時間ばかりが過ぎ去り、国連には戻れないまま、日本史上空前の大規模クーデター「二・二六事件」(昭和11年=1937年)が起こってしまいます。

大衆迎合と主体性なき政治が最悪の結果を招く

この事件についてはまた別の書で詳細に触れたいと思います。立ち上がった武装将校たちは悲惨でした。昭和天皇の側近たちが殺された同上クーデターで、天皇はもちろん、国民も冷ややかな視線を送ります。景況感が多少回復したタイミングでもあったため、ここでこそ、軍国主義への流れをせき止めるべきでした。ところが、この頃に政権を託されたの近衛文麿。彼の登場が日本の不幸でした。公家出身で国民の人気が高く、政治的基盤をもたないこの政治家は、世論に押されるがまま、対外的に威勢のいい言葉を放ち、中国に軍を増派しました。そして結果的には日中戦争の拡大を許します。当時、突然出しきた「東亜新秩序」の概念、そして「国民政府(中国・蒋介石政権)を対手とせず」のセリフは、国民から拍手喝采を浴びます。しかし、これはほとんど急ごしらえの、中身のない声明でした。昭和14年(=1940年)、日本はドイツ・イタリアらと軍事同盟を結びます。ドイツの拡張スピードがあまりに速く、日本は大いに慌てたはずです。これにより、アメリカとは戦わないとする外務省派が徐々に発言権を失い、根拠のない対米強硬派が、政権の中枢を牛耳るようになってきたからです。

敵は陸軍、海軍。内輪モメで自壊していく日本

もうひとつの不幸が重なります。ロシアを仮想敵国として中国権益にことさらしがみついてきた陸軍が、軍備だけ整えて何もしようとしない海軍の批判を始めまたのです。それもそのはず、海軍が対峙するのは太平洋をはさんで向かい合うアメリカ。まともに戦って勝てるわけがないことは、山本五十六長官にとどまらず、当時の海軍の共通認識でもありました。昭和16年、その陸海軍の舌戦を終わらせる人物が首相になりました。元陸軍大臣、対米強硬派の東条英機です。外交努力に期限を設け、海軍に早期開戦を迫りました。こうした政府内の議論の経過をつぶさに見た時、つくづく思い知らされます。おのれの省庁や立場を最優先に守ろうとする(軍人を含めた)役人同士の内部対立が、日本を崩壊に導きます。陸軍は、日露戦争で失った代償を正当化するがのごとく日中戦争に陥りました。海軍もおのれの面子にこだわり、意地だけで無謀な戦争に駆り立てられます。こうした複合要因によって歯止めのきかなくなった昭和の日本は、ただひたすらに破滅への道を突き進みました。ドイツを信じ、内輪揉めをし、アメリカを敵に回す。そんな負の連鎖に陥りながらも一億玉砕を掲げて歩みを止めなかった。愚かな顛末の全てを何度も僕たちの記憶の中に刻み込んでおきたいものです。


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