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「大国」になれるはずだった、小国ウクライナの悲劇

日本の京都は、ウクライナの首都・キエフと「姉妹都市」の関係にある。その歴史は共産圏の時代にさかのぼり、両者に共通するのは「古都」であること。ただ、日本とウクライナはあまりに遠く、両者の本格的な交流の記録は、ソ連崩壊以降のことである。

首都キエフは、ソ連時代、モスクワ、ペテルブルグに続く第3の都市でした|光藍社

ロシア人側も、みずからの起源(のひとつ)と考える都市。それがキエフだ。有名な聖ソファア大聖堂は11世紀に建てられ、千年の歴史をもつ。皮肉なことに、この理屈(ロシア人とウクライナ人は「ひとつの国民」)は、昨年、プーチン大統領が論文で主張しているものだが、それはあながち間違いではない。より正確に言うなら、「兄」でもあるウクライナの人々に、ロシアはもっと敬意を払ってほしい。

直近の情報であれば、ぜひ、NHKのまとまった記事を参照しよう。冒頭画像はそこから拝借したものだ。(下記リンク)


ここでは、その歴史を少しだけ紐解いてみる。参考図書は下記にある。貴重な日本語の情報だ。

ウクライナの基本情報

そもそもウクライナは、黒海の北岸に巨大な平原が広がり、大国になれる条件を供えた地域だった。かつてはこの地に遊牧民スキタイ人が現れたとあり、ギリシア人の記録が多々残されている。

帝国データバンクは、ウクライナへ進出する日本企業の調査・分析を行った


日本の教科書では、ウクライナを「ヨーロッパの穀倉」地帯と表現していた。世界で最も肥沃な土地と言われる。「チェルノーゼム(黒い土)」は、土壌の養分が豊富でバランスがよく、作物の栽培に適しているという。同地には、農耕民族が自然と流入し、定着していったのではなかろうか。その一つがまさに、スラブ系民族、今日のウクライナ人であり、ロシア人でもある。

6割が黒土だと言われるが、国の面積そのものは日本の1.6倍。耕地が限られる日本と比べて、その広大さは圧巻。鉱物資源でも、鉄鉱石に恵まれている。南は黒海に面しているため、交易環境も悪くない。スキタイ人が滅んだ後、遊牧民族の侵入や入替が続き、なかなか安定した国が成立しなかった。


悪夢の記憶:ソ連時代やチェルノブイリ

ちなみに、キエフ以上に知られた同国の都市は、チェルノブイリである。ソ連時代の悲劇となった原発事故は、実はウクライナで起こっていた。首都キエフの北方わずか100kmの位置にある(東京・福島の距離より近い)。

ソ連ではその後、クーデター未遂事件が起こり、当時のゴルバチョフ大統領が失脚した。ウクライナはその混乱に乗じて、独立を宣言する。新しい国旗(大空を示す青を上段に、麦畑を示す黄を下段にした二色旗)が採択され、ロシアのエリツィン、ベラルーシの首脳とともに、ウクライナもソ連の解体とみずからの独立を宣言した。

しかし、今日のロシアは、かつてのソ連と同じである。結局、ウクライナは常にロシアの存在感や脅威と向き合う宿命になってしまった。その歴史は長い。第一次世界大戦では、ウクライナはロシアとオーストリアに分割されていた。ゆえに、同じ民族が敵味方に分かれて戦う経験もしている。

大戦末期、ロシアでは帝国が倒れ、共産党政権が取って代わった。この間、独立を目指したのがウクライナである。当時、インテリ層が薄いウクライナでは、熟達したリーダーが欠如。文化的にも、ロシアに心酔している人が多かった。それもあって、ソ連の共産党政権は早々に軍を派遣し、彼らの独立運動を失敗に終わらせた。当時から、ソ連の南に位置し、工業・農業で多くの期待を集めるウクライナの土地を、ロシア人は手放さなかったのである。


ウクライナ人とロシア人の由来は同じ?

さて、そんなウクライナは、果たして独立の民族と言えるのだろうか。少なくとも言葉が違うようだ。同じキリル文字を使い、多くの単語がロシア語と同じ由来である。また多くのウクライナ人はロシア語も話す。言葉は違うものの、中国の北京語や広東語の違いよりもっと近いような気がする。

かつて、ウクライナの首都・キエフを都にした大国が存在した。キエフ・ルーシ公国だ。これをウクライナの起源とできるか否か議論はあるようだ。公国の版図は主にドニエプル川中流域を指し、キエフを中心としているが、間接的な支配も含めると、欧州屈指の大国だった。この川はそのままウクライナを南に下り、黒海に注ぎ込む。非常に利便性の高い川だ。ロシアは、この公国の継承者であると自負し、同地のロシア帰属を望んだ。黒海北岸には、あのクリミア半島も位置している。


公国の「ルーシー」名はロシアを意味する。当時のキエフ公国は、ロシアの一部を統治していた。ウクライナが完全にソ連に組み入れられていた時代、キエフ公国こそ、ロシア帝国の源流だと結論づけられたのは無理もない。しかし、ウクライナからすれば、自国民のアイデンティティと関わる問題である。みずからの独立後には、この論に疑義を申し立てていた。

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キエフ公国とはスラブ人が建国し、10世紀当時、欧州屈指の大国に成長していた。そもそもスラブ人とは、主に言語系統の分類であり、ゲルマンやラテンと並ぶ、ヨーロッパ三大民族(言語系)のひとつだ。その観点でいくと、ロシア人やウクライナ人は同じ民族系統になる。

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スラブ人は遊牧や狩猟ではなく、農耕を主とした民族である。ジワジワと西方に居住範囲を広げ、ようやく国らしくまとまったのが、キエフ・ルーシ公国だった。周辺民族の交易の力を巧みに利用しながら、国を治め、最後にはキリスト教に入信した。これにより、南で覇を唱えたビザンツ帝国の一員になり、外交的安定も得ることができた。

しかし、公国の結束力はもともと強くなく、相続・継承問題で常に不安定な状態だった。また南では、西欧の十字軍と中東でのイスラム勢力との争いが始まり、両地間での交易がそれなりに復活。キエフを通過する北回りルートの優位性が失われてしまった。つまり、地政学的な重要性が薄れたのだ。

それもあって衰退が始まったところに、東方から恐怖の一団が襲撃してくる。それがモンゴルの侵攻だった。彼らの機動力、統制力、破壊力は従来の遊牧民の比ではなかった。1240年、キエフは包囲され、陥落。

俗に言われるのは、モンゴル人の残虐性であろう。ただ、モンゴル人は服属した者には寛容だった。税収を求めるだけで、宗教は保護され、商業を重視した。ゆえに、この間、キリスト教化はむしろ進み、クリミアを介してイタリア商人が進出している。


東スラブ人社会の分化

キエフ公国の崩壊後、その国土は周辺民族の支配を受けた。ひとつはリトアニア。今日でこそ、人口が300万人に満たない小国だが、13世紀、突如として巨大化。スラブ人社会を統治するに至った。リトアニアの人々は少数派であるため、みずからをスラブ化させながら広大な地を治めたようだ。

その後、同地に進出したのはポーランドだった。スラブ人への支配は苛烈を極めた。また、カトリックを持ち込んでしまったため、宗教対立の根を埋めてしまったことになる。いずれにしても、周辺国によるウクライナの分割統治が続き、同地のスラブ人が複数の国家に統治される期間は長期にわたった。これが徐々に、東スラブ系の人々を、ウクライナ人やベラルーシ人、そしてロシア人に分化させていったと考えられている。

Bohdan Khmelnytsky(ボフダン・フメリニツキー)

大国に翻弄されているウクライナにあって、反乱の兵を挙げた人物がフメリニツキ-である。17世紀中旬、ポーランドとの戦いに挑み、権利改善を勝ち取った。そしてこの機に乗じ、キエフ周辺の勢力を集めて、本格的な独立戦争に打って出た。彼の奮闘が、ウクライナで英雄視される一方、この戦いにてロシアの庇護を求めてしまったことが悔やまれる。

ロシア勢力は、この機にウクライナに進入。両国の関係は徐々に不可分になっていく。その結果、気づくと国土の8割はロシアが占拠してしまった。残りは、あらたに勢力を伸ばしてきたオーストリアが支配した。100年以上続いたロシアの統治下、農業では、穀物・砂糖・タバコ・ウォッカの主要産地になり、ロシアに輸出した。工業でも、ロシアの資本投資が一気に進んだ。しかもこの時期、ロシア人が多く入植し、労働者不足を補った。黒海に面した地の利もあって、ロシア帝国内でのウクライナ東南部の重要性は高まるばかり。これが今日の、東部二州独立運動につながる。


「ウクライナ」の誕生

ここからはいよいよ、ウクライナでのナショナリズム高揚についてである。その契機は日露戦争敗北による混乱だった。ロシア帝国内で革命の機運が高まり、政党結成が認められるようになると、ウクライナ独立を標榜する政党が出現した。

第一次世界大戦の末期には、ロシアの正常不安定に乗じて「中央ラーダ」のもとに集結。ウクライナ語のラーダとは、ロシア語の「ソビエト」に相当する。中央ラーダはロシアに自治を要求。そして「ウクライナ国民共和国」の創設を宣言した。

しかし、ソ連に成立したボリシェビキ政権と対立してしまい、ウクライナ(中央ラーダ)軍との戦闘が始まった。民族独立を掲げたウクライナ側だったが、国内での支援母体は決して一枚岩ではなかった。また、民族自決を標榜したアメリカや第一次大戦時の戦勝国側にとって、敗戦国側との関係が緊密なウクライナに肩入れする理由はなかった。結局、中央ラーダの試みは失敗に終わり、ソ連の統治下に入ってしまう。

未来につながる一点としては、このときの独立の記憶が、今日のアイデンティティに大きな影響力を与えた。独立に関わった勇者たちのことが、記録や記憶に残り、ともすれば希薄になりがちだった民族の存在を今日につないだ。


困窮化したソ連時代

さて、共産党政権の支配下で政治が安定すると、いくらかのメリットも出てくる。ウクライナ語の奨励がなされ、識字率も向上した。また、重工業化の重点地域にもなり、ソ連からの投資が進んだ。しかしウクライナの強みであった農業は惨憺な結果に終わった。飢饉や強制徴収がたびたび行われ、餓死者が数百万人にのぼったと言われる。

スターリン時代の粛清も凄惨を極めた。文化破壊やロシア語への一律化も始まった。その後、ひとたび第二次世界大戦が始まると、全ウクライナはヒトラーの手に落ち、ユダヤ人狩りも始まった。ソ連の反攻も始まるが、当然、ウクライナ人がその先頭に立つ。そして戦後、自らの独立は許されなかった。

ソ連時代の、経済停滞は深刻だった。もちろんそれはウクライナに限ったことではないが、ロシア人の流入が進み、エネルギー不足から原子力発電所の建設も相次いだ。歪んだ開発と、複雑になっていく民族構成。チェルノブイリ原発の事故が起こる頃には、問題の根を相当数抱えごんだ状態だった。

検証・25年経ったチェルノブイリ原子力発電所事故

事故時のモスクワ政権は、新しい時代を切り拓くゴルバチョフである。しかし事故の性格上、事実の多くは隠蔽され、地域住民に対しての後遺症も深刻な問題になった。気がつけば、ソ連が進めた多くの工業化政策が、環境を破壊し、住民の健康を犠牲にしていたのである。ゴルバチョフの推進したグラスノスチ(情報公開)が皮肉にもそれらを明るみに曝け出してしまった。

反ソの動きと民族独立の機運が呼応する。その遠心力はどんどん強くなり、ソ連はついに崩壊。前述した独立宣言として、ウクライナ人の夢は結実した。明確な政府があり、全域を統治し、国際承認も進んだ上での独立だったこともあり、史上初めて、永続可能なウクライナ国家が誕生する。

面積では日本より大きく、人口ではフランスに迫り、ソ連時代の遺産である工業地域も有する点では、将来性に満ちた国である。独立後、ようやく日本との正式な関係も始まった。唯一の懸念材料は、隣国ロシアとの関係だった。ロシアとの不幸な歴史を背負ってしまったことが、反ロシア感情に火をつけ、両国の間にくすぶり続けてしまった。


戦争への愚痴

民主化されたウクライナでは、当然、民族主義的タカ派が威勢のいい言葉で国民の支持を得る。そしてロシアをたびたび挑発した。逆に、ロシアのプーチン大統領は、力任せでそれに対処しようと凶暴性を増していった。その延長上に今回のウクライナ侵攻が始まっている。

今日の事態は、ウクライナ側の火遊びが火事になり、ロシア側の(事実上の)独裁体制が暴挙に至ってしまった構図だ。本当に残念でならない。どちらが妥協するにせよ、一日も早い停戦と、難民の保護を願わずにはいられない。なぜなら、今回の戦争は、政治家同士の幼稚な喧嘩がそもそもの原因だからだ。

欧米は、みずからが「軍事の盾」となる気もないのに、ウクライナの反ロシア勢力を勢いづかせ、火に油を注いだ。他方、老害の象徴とも言えるプーチン大統領は、人生の最終盤にあって、最後の博打に打って出た。彼にとっては「最後」かもしれないが、人類の歴史はまだ続くのだ。美しいキエフの光景を後世に残してほしかった。

ウクライナ人は今、「たとえ死んでも私は戦う。恐れずに最後まで戦う」の言葉のもと一致団結していることだろう。しかし、その決意は、一億総玉砕を掲げたどこかの国と酷似している。政治に智慧がないと、おのずとこういう結果に至るのが、とにかく悲しい。


ウクライナ独立後の歴史については、下記リンクがまとまっている。


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