見出し画像

なぜ、大和に政権が誕生したのか

本稿冒頭で採りあげる筆者(安部龍太郎氏)は、歴史ファンの間では有名だ。僕自身も、彼の連載には目を通している。また、本書に登場する場所の多くは、(僕にとって)馴染みのある地域ばかりだ。本稿のテーマとは、なぜ古代の日本で、大和の地に首都建設がなされたのか、だ。近年、古代史をイメージする上で、非常に注目されているのが、当時の国際情勢である。空を飛べず、木舟くらいしかなかった時代に、海外のことがどう日本に影響を与えたのか、そう訝る声もあるだろう。しかし、国がおぼろげだった時代、国境警備やパスポートなどの概念もなかった時代だからこそ、人の往来は自由だった。逆に、中国大陸や朝鮮半島からは、同地の動乱によって、九州の玄界灘を越える人々の波は絶え間なく続いていたという。

朝鮮半島情勢は、つねに古代日本の関心事だった

663年、白村江の戦い。

どうしても英語で伝えたい日本の歴史100】随に変わって中国を統一したのが唐でした。唐は高句麗をただ攻めるのではなく、百済への脅威に悩んでいた新羅と同盟して、高句麗を圧迫します。高句麗は、それに対抗するために百済と同盟します。日本としては、半島の敵対勢力が、高句麗から唐へ、そして唐と同盟する新羅へと変わります。この外交上の一大変化が、日本に多大な影響を与えてゆきます・・・660年、ついに唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼすと、663年に日本に滞在中であった百済の王子と共に、中大兄皇子は大軍を朝鮮半島に送ります。

日本軍は、あの唐王朝と朝鮮半島で戦っている。当時で、3万もの大軍を派遣した日本は、相当気合が入っていたに違いない。食糧・武器などの物資をかき集め、軍に持たせていたことになる。戦争とは今も昔も相当な浪費だ。また船も大量に建造したはず。逆に言えばそれらの建造を可能にするだけの余剰生産力が社会にあり、時の王権が人・物・食糧を動員できたことになる。まさに、中央集権国家が何らかの形で組織化されていた証だろう。ただし、いきなり戦うと決めて、臨戦態勢になったわけではあるまい。朝鮮半島への勢力拡張・軍事介入は、きっと何百年も続いていたはずだ。実際、白村江の戦いより遡ること二百年以上も前から、高句麗の広開土王碑には、倭国軍との戦闘が記録されている。そんな国際情勢を鑑みるに、倭国の人々は、わざと、奥まった奈良(飛鳥)の地を選び、首都を建設したと思える。その理由について考えてみよう。それが本稿のテーマである。

画像1

奈良に首都を構えた理由(仮説)

纒向遺跡。下記画像は「産経WEST」より。

画像2

「神の山」とされる三輪山の麓で発見された大規模集落跡;纏向遺跡。ヤマト王権の初期あるいは邪馬台国の首都と言われる。ところが、この纏向からは、それ以前の遺跡が出土していない。つまり、纏向集落は、ある政治的な意思をもって(突然)建造された集落だったようだ。なぜ大和の地なのか。もしも、大陸あるいは朝鮮半島からの使者が倭国にやってきた場合、九州を経て、瀬戸内海航路で纏向に至る。この内海は(場合によっては)大河に見えたのかもしれない。そして一番奥のところに今日の大阪湾・湿地帯がある。そこからさらに水路を抜けて、大和の地へ向かう。九州からこんな具合に案内されれば、倭国を中国東方の大国だと錯覚することだろう。

【大和?ヤマト王権?】Wikipediaより
「ヤマト王権」について、「4,5世紀の近畿中枢地に成立した王の権力組織を指し、『古事記』『日本書紀』の天皇系譜ではほぼ崇神から雄略までに相当すると見られている」との説明がある。また、「畿内の首長連合の盟主であり、また日本列島各地の政治勢力の連合体であったヤマト政権の盟主でもあった畿内の王権」を「ヤマト王権」と呼称する場合もある。(なお、8世紀より)広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではない。
詳細は、リンク先に詳しい

ヤマト王権が西国の連合政権であったことを考えると、首都は話し合いで選んだ可能性がある。一番奥まった地を選んだ。それは外交上の配慮だったのかもしれない。また、もうひとつの理由も考えられる。大和の後背地には東国(尾張・東海)がある。その関係でこの地に都を構えた可能性だ。東国との関係は決して対立などではなく協調だった。実際、ヤマト王権は天照大神を伊勢に移したり、東海系の土器を集めたりしている。東西交流の最大の理由は、人口差だ。当時は東国の人口が圧倒的に多かった。意外に思われるかもしれないが、後の世につながる文明は西国に、そして縄文時代から続く集落の痕跡は東国に多く見られるのだ。先進的な西国にとっても、東国を敵に回すのは厄介だ。そんなわけで、東西を束ねることが最大勢力者の役割だった。朝廷を大和に置き、全国の王として、四道に将軍を派遣する。いよいよ、日本の全国制覇に乗り出したのだ。北陸、東海、西道(吉備)、丹後半島が次々平定された話が日本書紀に記載されている。

謎の丹後王国(勢力)が果たした役割

四道の一つ、丹後半島とは、教科書でもあまり学ぶことがない地域である。京都をずっと北に行くと、天橋立があり、そこから北上したところに丹後半島がある。京都府の古墳の半分はこの半島に集中し、出土品の状態もよい。注目すべきは海岸部だ。丸木舟が発見され、日本海交易が活発だったことも明らかになった。北陸産の玉類や隠岐島の黒曜石も見つかっている。縄文後期から弥生時代の頃、丹後はすでに海運の重要拠点だったのだ。朝鮮・新羅とのつながりを示すものもたくさんある。また、同地を流れる対馬海流が、様々な漂着物をこの地まで届けてくることも、同地の繁栄の源泉だった。海路の交易拠点、国際的な物流の一端を担った丹後は、やがて、海外との窓口として大和の中央政権と融合していく。結果的には服従形式を採り、表の歴史からは姿を消した。

神々の世界・出雲に何が起こったのか

<(画像)検索:出雲 巨大神殿

日本海側には、もうひとつ重要な場所がある。言うまでもなく、出雲だ。有名な大国主の国譲りを通して、出雲もヤマト王権に組み込まれていくのだが、これを境に出雲でも畿内のような古墳が作られるようになった。また、出雲神社には、巨大神殿の跡が発掘された。まさに国譲りの言い伝えが史実に変わった瞬間である。出土したのは三組の大きな柱。直径は 3メートル以上。これは古図面に描かれたままだったという。そこから推測される巨大神殿は48メートル(16丈)。実はこの巨大神殿、日本書紀では「国譲り」の条件だった。ところで、不思議なのは、日本の建国神話だ。もし、日本書紀が当時の権力者の正当性を示すでっち上げなのだとしたら、なぜわざわざ「国譲り」の物語を創ったのだろう。最初から、大和の政権こそが、日本統治の権限を神より与えられたとすればいいのに、わざわざ出雲の神より譲られたとしたのだ。もともと出雲が栄えた理由は、九州に近く、日本海の海流に沿った位置にあったためだ。この地には、製鉄がなされていたことも強みだった。すでに発掘された青銅品は、銅剣を含めて圧巻の量であり、出雲を無視できない理由がそこにあったに違いない。そして、それら銅剣が一斉に埋められた遺跡がある。

画像3

上記画像は荒神谷遺跡の観光案内よりの借用。これは近年(1984年)ようやく発掘されたものだが、銅剣の大量出土、しかも意図的に埋めたような出土状態を鑑みるに、何らかのメッセージがあったのかもしれない。古代出雲のすごさを想像するために、ここの遺跡はとりわけ必見だ。

日本国(大和政権)の誕生

最後に、NHKで紹介された説でまとめておこう。なぜ、奈良の地を(政治の中心地に)選んだのか。このテーマは日本建国に関わるため、多くの専門家や歴史ファンが追っかけている。僕ごときが何かの新説を語れるわけではない。3世紀前半には、この地で、国内最大規模の建物跡が奈良(大和の地)にあったとされる。最古の前方後円墳・箸墓(はしはか)古墳もこの地に造営された。NHK(オンデマンド)に、タイトル通りの良質番組がある。ヤマト王権の誕生に迫るのだから、この地に政権が置かれた理由も示されていた。

前方後円墳とは、日本各地にあった古墳形状のいわば融合体である。しかも、それはかなりの規模をもって突然登場した(箸墓古墳)。この古墳の年代は意外と古く、邪馬台国・卑弥呼の頃とかぶる。それはさておき、同地では、農耕具がほとんど出土していないという。つまり庶民の生活を感じさせないらしい。しかも、それ以前の遺跡はほぼない。状況証拠からの推測として、政治的な折り合いをつけて、あらたに建設された都市だったようだ。中国での記載にあった、倭国の分裂の様子、その後、話し合って王を立てたという展開などと合わせて考えると、各地の豪族同士が協議し、ヤマト王権を中心に日本が政治的な統合を果たしたとするのが、最も合理的な說明である。当時の環境に科学的なメスを入れると、降水量がかなり多かったそうだ。洪水などで使えなくなった海岸部や河川が氾濫した地域を避け、やや内陸の地を選ぶ。こうして人々によって選ばれた場所が、大和である。「国譲り」の神話が象徴するように、天皇家の祖先が他の豪族を圧倒したという記録は特にない。大きな和をもって国をまとめていった祖先の知恵に、大和の地名や「和」をもって尊ぶ我が国の成り立ちが反映されているようにさえ思える。その後、古墳は全国に広がり、ヤマトの王権はいつしか、大和政権となり、朝廷として全国支配を完成させていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?