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田んぼは「発明」であるという話

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」。

秋になって実れば実るほど、稲穂は低く、垂れ下がっていく。偉い人ほど、謙虚で低姿勢という理を示した言葉です。本書は、この日本人の心とも言えるイネについて、色々なことを教えてくれる良書です。たとえば、イネ科の進化を本書は面白く解説しています。

【イネ科について:Wikipedia】イネ(米)、コムギ(小麦)、トウモロコシ、オオムギ、ライムギなど、穎果部分を食用としたものが狭義の穀物であり、全てイネ科に属する。その他サトウキビやタケなど馴染深い資源植物が多く含まれる。ススキやパンパスグラスもイネ科に属する。穀物は小粒で大量の穎果から籾殻を除去し、さらに硬い果皮を除去(精穀、せいこく)しなければならず、穀物の利用はこれらを効率よく行うための技術の発達とともに進み、これらのすぐれた技術を持った集団がやがて文明として栄えてきた歴史的な背景がある。

イネはどこから来たの?:農林水産省

イネとは本来、動物に不親切だった

ユリ科を祖先とするイネ科は、荒涼な大地で誕生したとされます。花は咲くのですが、目立たず、そして花びらの数も減らしました。なぜなら、虫のいない大地で、風に任せて花粉をばらまく方式にしたからです。また荒れ地なので、必死で食いついてくる動物から身を守る対策も採りました。イネは体を硬くするために、ケイ素を用いています(多くの植物はカルシウム)。さらに、イネはふだん地を這うようにしていながら、花粉を撒く(種子を落とす)寸前で節を伸ばし、立ち上がります。草食動物に食べられない工夫だと考えられています。ちなみに、動物側もさるもので、牛などは四つの胃をもって、消化の難しいイネ科の植物にチャレンジしています。胃の中の微生物によったり、あるいは口の中に戻したり、ゆっくり分解します。

イネ科

ここで本書のタイトル、「不思議」に思いを寄せましょう。葉や茎に栄養のないイネは、その分を種子に集中させました。そして期間を絞って、地面にばらまきます。イネを食べようとする動物にとってこの特徴は難儀でした。もちろん、人類にとっても同様です。ところがです。イネ科の中で、種子を落とさない種(非脱粒性)がありました。これがコメであり、人類によって発見されました。収穫した後は、食糧として貯蔵もできましたし、残った分は、翌年、地に撒けばいい。こうしたイネの特徴のおかげで人類は農業を始めることができました。狩猟に比べて、非常に厄介な農業は、おそらく「やむを得ない」環境の中で人類が見出した知恵だと考えられています。厳しい生存の時代が訪れた時、たまたま荒涼の地で進化をしていたイネが、人類を救ったと言えなくもないでしょう。

技術的には、初期は籾(もみ)を直接水田に播(ま)いて育てていたが、奈良時代には苗をつくって移植する栽培法が一般化した。収穫も、穂をとっていたものが、株を刈る方法にと変わってゆき、遅くとも平安時代初期までには、田植、株刈りの稲作技術が確立した。鎌倉時代には品種、熟期、品質への関心が増し、施肥、除草、裏作などの技術も進んだ。江戸時代に入ると、水や風、篩(ふるい)などを利用して、良質の種籾を選ぶ技術が普及し、苗代(なわしろ)管理や播種(はしゅ)法が集約化した。また、溝を掘って排水を早めたり、客土などの土地改良も行われた。【日本大百科全書(ニッポニカ)より引用】

稲刈りとは

クボタの田んぼ特集(田んぼに水をためる)

最近の日本人は海外のことをよく知っています。海外旅行が当たり前になり、その海外からも多くのフードがやってきています。そこでお米にはまったく異なる種類があることも知りました。僕たちが日頃食べているのはモチモチ食感のジャポニカ米、それに対して、エスニック料理などに出てくるのは細長いインディカ米(タイ米)です。パサパサ食感が特徴です。両者では、調理の仕方も異なります。インディカ米は、ゆでこぼし手法です。

タイ米の炊き方

(タイ米は)炊き方も全く異なる。それが『湯取り法』と呼ばれる炊き方である。まず、鍋に水をたっぷり張って沸かしていく。水の量については特に気にしなくてOK。お湯が湧いたら、必要な分のタイ米を投入する。まさに日本人の常識を覆す炊き方だ。米が焦げ付かぬよう、軽くかき混ぜながら7~8分ほど煮ていく。そう、“炊く”のではない。味見をして、少し芯が残る『アルデンテ』のような状態になったら一度火を止め、お湯を切る。再度火をつけ、今度は弱火にして鍋に残った水分を飛ばしていく。米がパチパチという音を出したら火を止めて蓋をし、10分ほど蒸らせば完成だ。【以上、写真も含めて「日本お米協会」より】

田んぼという発明

ここからは田んぼの話題。上記にてもリンクを紹介しましたが、農耕機等を手掛けるクボタの「田んぼ」サイトが秀逸です。田んぼを発明と称したのは言い得て妙です。ぜひ御覧ください。

日本人にとってとりわけ重要なのは、「田んぼの風景」です。満々と水をたたえ、畦道がきれいに貫き、季節ごとに色が変わる非常に美しい風景です。都会から足を運ぶと、自然はいいなぁとつぶやきそうなものですが、日本の田んぼはまさに人工的なシステムです。陸稲と呼ばれる種もあるのに、わざわざ水で満たした中にイネを植える。ここに疑問を抱いたことはないでしょうか。これは実は雑草対策なのです。荒涼な大地で育ったイネも、さすがに雑草には勝てない。ゆえに競争の舞台を湿地にすることで優位に立てます。また先に苗を育ててから植えるのも同様の対策です。しかし、昔の人々は湿地を田んぼに改造するのが精一杯でした。雨に配慮し、川の水量にも応じられる水路の整備は相当の技術が必要だったからです。戦国時代、各国の大名は競って新田開発に勤しみましたが、最初は山間部すなわち棚田でした。治水の技術者が登用され、領内の人々を動員しての河川対策もなされました。そしてそれらが開花したのは江戸時代です。治水が本格化し、平野部が本格的に開拓され始めました。数々の暴れ川が上流域で棚田に、下流域で平野の各所に分流され、ダムのような役割を果たしました。

クボタの田んぼ特集

この水で満たすという田んぼシステムには、実にたくさんのメリットがあります。連作障害が自然と避けられています。たとえばムギは、同じ場所で作り続けていると、「地力」を使い果たしてしまいます。そこで牧草を育てたり、家畜を放牧させたりして三圃式農業を行いました。異なることをしている間は、地力を回復させる期間となるのです。また、水分が蒸発していくと、土壌中のミネラル分(塩類)が表層に集積してしまう問題も起こります。これが水田では常に水の供給がなされているため、そうなりません。田んぼの強みです。さらにイネをムギを比べると収穫効率の差も五倍以上になります。すなわち、稲作は麦作より多くの人口を養うことができるわけです。日本は、世界の雨の2%もの量が降る、水資源に恵まれた国土です。それを知的な人々が有効に活用してきた結果生まれてきたのが田んぼ、つまり高度な食糧増産システムだったのです。

日本人の信仰対象となったお米

同じコメ食文化圏でも、日本人のコメに対する思い入れはひと一倍強い。コメは大豆と組み合わさって完全栄養食となります。ヨーロッパのように、肉を食べたり、乳製品を摂取する必要はありませんでした。ゆえに仏教に教えにしたがって、日本では肉食がなされてこなかったようです。また、稲作の北限ともされる日本の地域では、熱帯地域のように多様な作物の選択肢はありません。一度、味わってしまったコメの魅力を手放すことができず、稲作技術を大事に磨いてきた。それが、日本人のコメ信仰につながった可能性はありそうです。

米の生産量:農林水産省

コメの単位

コメに由来する単位の話をしましょう。社会の物差しになるという役割は、一種の信仰かもしれません。田んぼの面積を表す「反」(1反=10アール=1000平方メートル)。太閤検地によって定められたものです。同じく「坪」という単位も使われます。一坪の田んぼからは3合のお米が取れました。一人が一日に食べる量ですね。その一人を一年間養うための量は1080合です。これを「一石」と表現します。この量が収穫できる面積こそが1反です。32m四方の土地です。「加賀百万石」と聞けば、百万人を養える田んぼがあると考えて差し支えないでしょう。ところで「一石」とは現在の米の量で表すといくらでしょうか。当時は、ひとり150キロものお米を食べていたことになります。現代日本人は一年間に60キロしかお米を食べていないようなので、今日では、食の多様化がかなり進んだのですね。また、今日の米作技術では、1反で500キロの米を得ることができます。単位生産量が上がり、米の消費量が減った日本で、米余りが深刻化するのも当然の帰結でしょう。江戸時代を通して、コメは日本の貨幣でした。様々な取引がコメを媒介としてなされました。江戸期も半ばを過ぎると、コメの増産が裏目に出て、米価を暴落させます。幕府の財政がコメに基礎を置いていたため、増産に至ったにも関わらず、財政が悪化するという奇妙な現象が起こりました。江戸幕府が崩壊したのは、コメ問題を根本的に解決できなかったからかもしれません。

栄養価が高く、保存がきき、ただ炊くだけでおいしく食べられる米は一種の通貨として用いられるほど、価値のあるものとみなされてきました。政府への税が米によって納められることもありました。(江戸時代になると)武士にとって米は食料であるよりも、事実上の通貨です。人々の暮らしをその根底で支えてきた米の価値が貨幣によって相対化され、日々変動するようになりました。【学問する人のポータルサイト『トイビト』より引用、文末一部修正】

最後に、熱帯原産の作物であるコメが北進した話をまとめとしましょう。日本の中でも、コメの穀倉地帯とされるのは新潟から北陸にかけてと、北海道です。そんな寒冷地がおいしい米の産地となったのは、もちろん人々の努力の賜物ですが、植物側にも同様の理由がありました。厳しい環境に置かれた植物ほど、限られた光と熱を効率的に蓄えようとします。また、夜の温度が低い地域では、呼吸活動も少なくなり、光合成によって蓄えた糖分を米粒(種子)により多く移動(転流)させることができます。結果的に、イネの最北限でつくられたコメが、世界的にも有数の美味で知られるようになりました。日本人として誇らしいことですね。

日本のお米ブランド








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