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劣等感と決別のセオリー

劣等感とは他者や未来の自分に対して現在の自分が劣っていると感じる感情のことだ。自分は有名人やアーティストに限らず、気兼ねなく話せる人、自分と一緒に隣を歩いてる人にさえ劣等感とやらを感じることが多かった。
これを読んでいる方の中にも少なからず「あの人と違って......。」や「あの人はああなのに......。」と感じながら生きている人はいるのではないだろうか。僕自身、人と上手く話せない、なかなか新しい出会いに恵まれない、そういうネガティブなマインドの根底には常に劣等感が付きまとっていたのだ。
今回のnoteは劣等感に苛まれなくなった現在の自分が、過去の自身を俯瞰しつつ、劣等感を強みに変える過程を記した。

まず最初に劣等感を感じるか?と身の回りの何人かに尋ねたことがある。それらを抜粋して紹介する。
絵を生業としたい夢を持つ友人は「身の回りの人には感じないけど、有名なアーティストや名画を見た時に少々感じてしまう。その時筆が進まなくなる。でも筆を動かさないと始まらないんだよね」と言う。それは彼の立派な自信からくるものだろう。それを聞くと何だか少し尊敬してしまう。
元バイト先の先輩は「劣等感なんてバチバチに感じるけど、今まで自ら全部決めてやってきた」と言う。決断や行動に変わると生活が豊かになり自然と自信がつくはずだ。足、腕共にタトゥーまみれの先輩がカッコよく見えた瞬間だった。
またある友人はこう言う。「人を優れていると思うことはあるけど、それに対して自分が劣っているとは思えない」加えて「私は色んなことやってきたし」と言う。人を評価する物差しは忘れずとも、人と自身を比べる物差しは必要ないということだろうか。また日々の出来事の積み重ねで自信がついてるのだろうか。それを聞くと自然と楽になれた。
バーで出会った自分より二回りくらい上のお姉さんはそもそも劣等感と言う言葉が良くないと仰っていた。「劣るに等しいってなんか嫌じゃない?」と。「でも歳を重ねると感じなくなるものだよ」ともいう。劣等感を感じるのは若さ故なのだろうか。

近年の若者は劣等感を感じやすい。それは主にSNSやインターネットの普及が関連しているのではと思う節がある。
SNSでは基本的に自分の綺麗な部分しか映さない。SNSではキラキラしてるが、実際は悩みやしがらみを抱えている人なんて山ほどいる。素敵なSNSをしてる人にたくさん出会ってきたが、深く話込んでみると皆それぞれ悩みを抱えていた。どんな人であれ葛藤を抱えているのだ、それが綺麗なSNSを持っていてもだ。
しかしながら、そのSNSを見る側は一面的にしか情報を受け取ることができない場面が多い。これらは想像力の欠如から生まれる劣等感ではないかと考えた。「それって情報の受け取り手側のバイアスだよね」とも言った友達もいた。

このように劣等感は自分の自信の無さから生まれてるように思う。人と比べて得る幸福や名声よりも自分自身で見出す幸せのほうがいいのは頭でわかっていても、心がどう感じるかは全く違う。あの人たちとは違うレーンと思っても、どうしても横が気になる。

では部屋のドアをあけ、外へ出てみよう。足を動かして、いい景色を見に行こうではないか。できれば1人で。できれば晴れの日がいい。できれば遠くまで行けたらいい。遠ければ遠いほど、いつもとは違う刺激に溢れた日常が待ってるはずだ。
遠くまで来たなぁと思った時にふと後ろを振り返ると、自分の歩いた道のりと全く同じ道を歩いたことのある人なんてこの世には誰1人としていないのだから。誰とも違う自分のレーンを歩いているではないか。

まずは自分を少しは肯定できたのではないだろうか。次の1歩へ進むために僕は''憧れ''を作った。自分に正直になるだけだ。あの人かっこいいと思ったら、かっこいいと思えばいい。
皆さんもかっこいい人に直面したことがあることがきっとあるはずだ。それが容姿であったり、立ち振る舞い、その人の発する言葉、果てまたその人のアイデンティティなのかもしれない。
僕はステージ上のアーティストであれ、徒歩5分圏の友人でさえかっこよく思える。素直にかっこいいと言えることは大切だ。

ある友人との会話でこのような場面があった。
「最近、憧ればっかりだよ」という僕。
「俺だったらどこに憧れるの?」と問う友人。
「うーん、バイク乗ってる時かな?後部座席乗ってる時かっこよかったよ」という僕。
ニンマリと口角を上げる友達。

自分を好きになった時初めて人を好きになれたのだ。人を評価するものさしを忘れてはダメだと思う。

ここで思う。「あの憧れみたいな生き方をしてみたいと思わないだろうか?」
自分の順番を指をくわえて待ってるようじゃ何も変わらない。かの大谷翔平も「憧れるのをやめましょう」と言う。
憧れを真似することを始めてみませんか?
「学ぶ」という言葉は「真似る」から来ている説があると大学教授に教わったことがある。何でもいいだろう。
ファッションや立ち振る舞い、或いはその人が取り組んでることと同じことを取り組んでもいいかもしれない。
とにかく手足を動かすことが大切だ。そう忙しさに身を任せていると自然と自信へと還元され、劣等感に悩まされる暇すら無くなっていくのだ。

どうだろうか?劣等感と決別のセオリーなんて書いたものの劣等感が反骨精神に塗り替えられる方程式を伝えたように思う。
劣等感と決別するのなんて容易くない。少なくとも僕はそういう人間だと思う。
ただ、このような話が出たことがある。
「この世の音楽だったり文学は劣等感から生まれてるものばかりですよね」と。どんな感情も感覚も自分から出たもの大切に、そして自分の作品へと消化するのがアーティストの使命なのだろう。


この文がを読んで何も感じなかったならそのまま真っ直ぐに生きてほしい。
微力ながら力になったのであったら、我ら泥臭く新しい景色を求めようじゃありませんか。もしも周りの人達の輝きにやられそうになったら、劣等感なんて名前をつけずに、ほんのちょっぴり夜風に身を任せて散歩してはいかがでしょうか。

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