小説「トニオ・クレエゲル」トーマス・マン 感想


著者 トーマス・マン

 自らを俗人のあずかり知らない孤独な芸術家を自任する一方で、そうした俗人たちへの嘘いつわりのない憧憬と嫉妬を持ちながら、俗人にもなりきれないトニオ・クレエゲル。
 トニオは友人の画家に語ります。芸術はまったく小市民的な生活から離れた非人間的な、俗的感情を排したある種の無味機械的なところから生まれ、そして芸術家はみんながしてそうしたある欠陥を持っていることが前提となっているのだと。その芸術家の提示する真理を本当に解することのないのが俗人や、生活のための芸術としている芸術家、あるいはそうした文学者なのだと断じます。彼は芸術と人生を対立するものとして考えていたのです。だからといって人生はしりぞけられるべきものと考えているわけではなく、むしろそうした平凡な人生をこそも守られ、愛されるべきだと彼はいいます。
 しかし彼は芸術家としての自分が俗人とは縁のないことを、口にこそ出しませんが、どこか優越を感じていたのも確かではないでしょうか。その考え方は彼が少年時代から、一般とされる生活や社会からいつでも爪はじき者とされてきた経験によるのでしょう。そんなトニオを友人の画家は、「横道にそれた俗人」だと喝破します。芸術家になりきれない俗人、しかしその俗人にもなりきれない芸術家。彼にもそのような自覚はありました。ある人々にとっては、正道というものが存在しないのだということを身をもって了解していました。そんな自分にはあらゆる生活様式が可能でありながら、そのすべてがことごとく不可能であることが、すでに青年時代の彼に理解されていたのです。舞踏の稽古の日に、外の見えない窓をじっと前にして立ち、インゲボルグを待っていたときのトニオの憧憬の念はいかばかりだったでしょう!
 十三年ぶりに帰郷しても故郷は彼に親しさを見せませんでした。生まれ育った故郷でさえ彼に対してよそよそしく、疑惑の目を向けるのです。彼は故郷のせまい道でさえ本道を歩くことが許されていないのでした。かつて住んでいた家を訪れると、家の一部が図書館になっていて、つまり彼の過ごしていた部屋だったところは、皮肉にも彼の嫌う「文学」の場所となっていたのでした。この故郷での滞在は、まったくこの世には気安くできる人間や場所などどこにもないような感じだけを彼に残させたのでした。
 そしてとうとう、滞在先のあるホテルでハンスとインゲボルグと再会します。もちろん本当の本人たちではありません。しかしトニオにとってはガラスの扉ごしに見る男は少年時代に「ドン・カルロス」を勧めたあのハンスであり、踊っている女は彼にとって決定的となったあの日にカドリールを踊っていたインゲボルグだったのです。そのガラス扉は、トニオと彼らとを隔てる残酷で侵すことのできない永遠の距離として厳然とあったのです。彼らにすぐ手の届くようで、それが果たされないということが、トニオに生活や社会や世間というものへ強く憧れと羨望の念を起こさせるのです。叶わないという深い憂鬱と永遠の憧れとしての郷愁が、しかし横道にそれた俗人としてのトニオが本当に人生を愛しうるものにしているのでした。

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